思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-

桜
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20

 門倉が近付いてきたので、私はそちらを向いた。
 しかし、私たちは一言も言葉を交わさなかった。彼はその時はもう泣いていなかったが、言葉を失っているようだったし、私はかけるべき言葉が何も思いつかなかったからだ。それに私はなぜだか妙にさっきの女の子のことが気になっていたのだ。私はその子の方を振り向いた。門倉の方へ視線を移してから、再び女の子の方を見るまでの間は、せいぜい一、二秒だったと思う。その短い間に、その子は忽然と消えてしまった。私は慄然とした。
 「ここに女の子いたよな?」
 私は思わず門倉にそう訊いてみたが、彼は知らないと答えるだけだった。しかし、そんなはずはないのである。彼が私の方を見ながら近付いてくる時に、彼の視界にその女の子の姿が入らないなんてことはありえないのだ。それにしてもあの子はどこへ行ったのか? あの子が動く気配はなかったし、そんなに短い時間に視界から遠ざかることは不可能だ。
 私がその不思議な女の子のことを彼に説明しようとすると、翔子の両親がロビーに顔を出したので、そのことはその瞬間からそれきり忘れてしまった。両親は私たち二人だけではなく、ロビーに居合わせていた人々全てに丁重な挨拶をした。たった今娘が息を引き取ったという事実と、娘のために駆けつけてくれたことへの感謝を述べた。母親は両手で顔を覆って泣くだけで、何も言えなかった。人々の間からすすり泣きや嗚咽が漏れ始めた。父親は大量の涙のためかなり時間をかけて、ありがとうございましたと言った。翔子の遺族一同が深々とお辞儀をして去っていった。少しずつ人がロビーから減っていった。私たち二人も病院から立ち去った。車中ではほとんど門倉と言葉を交わさなかった。交わした少ない言葉も、ありふれたことだった。「ジュース、飲むか?」とか、「暑いな。」とか、そんな程度の言葉だった。彼は表面的にはあまり悲しんでいないように見えた。しかし実際にはとても悲しかったに違いない。その後しばらくの間、数日のことか数週間のことかはよく覚えていないが、彼はあまり口を開かないで、うつむき加減のことが多かった。
 ある夕方、彼は私を夕飯に誘いに来た。私たちは近くの洋食屋に行った。その店は学生には少し負けてくれるので、私たちは割りと頻繁にその店に行っていた。焼きたてのハンバーグがソースのよい匂いをあたりに振りまきながら運ばれた。私たちはがつがつとそれにかじりついた。門倉はハンバーグにかみつきながら、突然言い出した。
 「俺、ふっきれたんだ。」
 私は小さく切ったハンバーグをフォークに刺して持ち上げようとしていたところだった。私がきょとんとしていると、彼は畳み掛けた。
 「翔子のことだよ。いつかお前が言った通りさ。初めからいないものだと思えば忘れられるだろうって、お前、言ったろ? そんなことができるものかと思っていたけど、確かにその通りだったよ。ここにいるのといないのとでは大きな違いだな。いるときには考えられなかったよ。多分、翔子の存在、精神というものに、俺という男はつかまっちゃったんだろうな。わけのわかんないことを言うようだけどさ、そんな気がするんだ。いなくなったとたんに、俺をつかまえていた何かが、すっと消えていったような気がするんだ。こんなこと言うのが不謹慎なのは百も承知の上だけど、俺、ほっとしてるんだ。だって、あのままだったら、俺、酒に入り浸って死ぬか、自殺して死ぬか、どっちかしかなかったんだから。今でも翔子のことを思い出すと、もちろん悲しくなるし、好きだったけど、もう終わったことっていう感じの方が強いんだ。」
 私は、そういうことは理解できると言った。それから、そういう心境になったのは、彼にとってむしろよいことだとも言った。彼はそれを聞いて安心したのかどうかわからないが、うれしそうに笑った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-
◆ 執筆年 2007年4月1日