思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-

桜
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 その後、彼は以前のような快活さを取り戻し、大学時代に何人かの恋人をつくり、まさにキャンパスライフをエンジョイした。私は彼とは対照的な学生生活を送った。彼がビールやジュースをたくさん詰め込んだクーラーボックスを持って、波の打ち寄せるビーチで、現地で調達した活きのいい魚介類を材料にバーベキューをしていた時、私はクーラーのよくきかないアパートの自室で、須磨に流れていった光源氏について、レポートをしたためていた。彼がカラオケではやりの歌を夜通し熱唱している頃、私は紫式部と中国文学との関係を徹夜で調べていた。彼がディスコで汗を流し、女の子と微笑み合っている時、私は汗だくになって、本の山から平安時代の歌舞音曲に関連する記事を見つけ出し、うれしくて一人で微笑んでいた。彼がゲレンデをスキーの板に乗って、鮮やかにシュプールを描いている時、私は研究室の教授から研究の方向性について指導してもらっていた。つまり、私がのべつ幕なしに古典文学の書物とにらめっこしていたのに対し、門倉は持ち前の要領のよさで、学業とはほどほどに付き合い、人魚や揚羽蝶やボディコン・ワンレンや白銀の妖精たちと濃密に付き合っていたのだ。
 私の大学時代の二つの浮いた話の一つである、「翔子との次の土曜日のデート」は永遠にキャンセルされてしまったし、もう一つの、恐怖の共有というある種の興奮状態が引き起こした、ハプニング的な久美子との契りは、その後魔法が解けてしまったみたいに霧消してしまった。久美子と私は、卒業まで普通のクラスメートとして、それほど親密でもなく、といってそれほど疎遠でもなく、ごくニュートラルに接した。
 今でも、何かの折に、血まみれになりながら私に何か言おうとしているように見えた翔子の顔を、ふっと思い浮かべる。あの時翔子は実際に私のことを見つめていたのじゃないだろうか? 翔子は私に何か言いたかったんじゃないだろうか? あの日翔子が私に言ったことは本心だったんじゃないだろうか? 気が多く、外面的なところにとらわれやすい翔子は、軽い戯れを求める男につい近付いてしまうが、本当は互いを大切に思い合う相手がほしかったんじゃないだろうか? きっと私は、翔子を軽い遊び相手のようには扱わずに、とても大切にしたろう。それは疑いのないことだと私は自分でよくわかる。翔子もそれがわかっていたのだ。だから、最期に無念の思いを私に伝えようとしたのではないか? 私は、そんなふうに、自分にとって最も都合の良い解釈をしてみた。そして、自分のことをつくづく天晴れな人間だと思った。おい、お前はたいしたもんだぞ。そこまで、自己を美化できれば怖いものなしだ。
 私は翔子の本心という、結論の出ないことを考えるのは保留にした。それに、本心がたとえ分かったとしても、もはや何の意味もないことだ。さらに言えば、人間の気持ちなんて、一つの状態に確固たるものとして定まっているものではないから、ある面ではそれが本心であるが、同時にある面では本心でない、とも言えるのだ。
 それよりも私は、私の深い記憶の底からたった今浮かび上がってきたあの不思議な女の子のことが気になった。病院のロビーで出会った絵のように整った顔の女の子だ。あの子はなぜ、あんな冷め切った目で、翔子の病室の方を見つめていたのだろうか? 私は、直感的に、あまりにも突飛な空想を頭に巡らせた。門倉が最近墓場で見たという幻の女の子が、この女の子なんじゃないだろうか? あの女の子は、門倉が子供の頃、結婚の約束をしたという幼馴染の桜という女の子であり、彼女は何かの原因で子供の頃に死んでしまった後、ずっと門倉のそばについているのではないか? そして、門倉がとっくに忘れ去ってしまった結婚の約束を、今までずっと信じていて、彼がその約束を裏切る行為をすると、恨んで、何らかの働きかけを行うのではないだろうか? 門倉の最初の恋人、翔子は、交通事故で死んだのではなく、あの女の子の不思議な力によって、交通事故という形で殺された。そして、今になってまた何らかの目的を遂げるために門倉の目の前に現れた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-
◆ 執筆年 2007年4月1日