思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-

桜
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38

 その時だった。それまで一言も大人の会話に口を挟まなかった璃鴎が、静かだが強く、自説を主張し始めたのは。
 「お札を取り替えることの方が先だよ。桜さんはお札の強い力で封印されている。僕の勘を言うのは気が引けるけど、仏壇に飾ってあったお札はただのお札じゃないよ。つまり神主さんの呪力だけではなくて、何か別の力も付け加わっているような気がするんだ。多分門倉の小母さんの思いが加わっているんだよ。あれを桜さんから遠ざけない限り、門倉の小父さんを守り抜けないと思うんだ。今はとにかく桜さんにはどうにもならないぐらい門倉の小母さんの力が強まっていて、このままの状態でお父さんたちが門倉さんちに行っても、あまり意味がないような気がするんだ。」
 私は驚いた。璃鴎のこうしたことに関する説明をこれほど詳しく聞くことは私にも初めてだったからだ。当然女の子たちはもっと驚いて、一瞬車内が沈黙に包まれた。
 最初に桃子が口を開いた。
 「璃鴎君の言う通りかもしれないけど、でも切羽詰っているのは門倉さんの方よ。もし璃鴎君の言う通りに、私たちが門倉さんの所へ行ってもどうにもならなかったら初めて堀川さんの家に行くということで、少しも遅くないと私は思うわ。」
 「私もそう思うわ。この薬、本当に危ない薬よ。一刻も早く門倉さんを病院に連れて行かないと手遅れになってしまうかも。璃鴎君の言うことも何となくわかるけど、そういう抽象的で神秘的なことよりも現実的な行動を優先させるべきだわ。」
 茉梨絵は桃子よりも論理的に、反論を試みた。
 どうも形勢は璃鴎に不利だった。遼子も思案しかねて黙っていた。私には理解することの出来ない、遼子と璃鴎の世界の言葉を使って考えると、門倉の奥さんの見えざる力が猛威を振るってこの二人の女の子にまで影響を及ぼしていたのかもしれない。私はよく遼子に言われることを思い出した。
 「あなたは全くといっていいほど霊的なものには鈍感で、あなたぐらいになるとそれは才能の一種だわ。」
 私は今の状況をあえて遼子や璃鴎の世界の文脈で考えてみるとした。そうすると、私だけがニュートラルにこの件について判断を下せるのだ、という気がしてならなかった。もしそうだとしたら、私は今どのように行動すべきか? 私は一瞬で決断した。ためらってはいけない。璃鴎を信じよう。なぜなら、突然私の思考が璃鴎の思考とつながったからだ。それはうまく説明できない不思議な感じだった。しかし、私は璃鴎をはっきりと感じた。そして、璃鴎だけが今全ての真実をつかんでいる、ということが判ったような気がした。親馬鹿だと言われても構わない。私は何も言わずにインスパイアーの進路を変更した。そしてまっしぐらに堀川桜の生家に向かった。
 「芳彦先生、堀川さんの家に向かっているんですか?」
 茉梨絵に訊かれたので私はそうだと答えた。
 「大丈夫だよ。私は門倉を大学の頃から知っているんだ。あいつはこんなことぐらいで簡単に死ぬような玉じゃないよ。」
 私は自分でもわざとらしいと思うほどの高笑いをした。
 車内の二人娘は何の反応も示さなかった。心配そうな表情をしているようだった。
 「お父さん、ありがとう。」
 璃鴎が静かにそう言った。
 「なに、お父さんの直感が璃鴎の言ったことに近かったんでさ。」
 私が下手な説明をすると遼子が混ぜっ返した。
 「人一倍鈍感なくせにねぇ。」
 遼子の温かみのある声で車内の雰囲気の固さがほぐれてきた。女の子たちがくすくす笑い出し、また普通の話を始めた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 思われ-チェリー・ブラッサム・ピンク-
◆ 執筆年 2007年4月1日