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 小雪の個人的な事情とは関係なく、講義は進んでいく。
 「深草少将の話は知っているかしら? この人に言い寄られた小町は、百日通って来たら、付き合ってあげるって約束してしまったの。そしたら、少将は本当に毎晩通ってきたの。頑張って九十九日通ったのだけど、とうとう百日目に死んでしまった。その亡霊に悩まされる話が、『通小町』なんていう能にあるのよ。そんな話を聞くと、小町に対するイメージが少し違ってくるでしょう。女性の内に秘めた嗜虐性や残忍性なんてことも考えてしまうかもしれないわね。」
 松本小雪はますます背筋が寒くなるような思いをした。
 (もちろん私は、美女でも才媛でもないし、嗜虐的でも残忍でもない。と思う。また、あの恐ろしい人は、かつて私に言い寄ったわけでもない。正体不明の、文字だけの存在にすぎない。でも、私に執念深く迫ってくる。少なくともこの状況だけは、すごく似ている。)


 白い床、白い壁、白い天井、ところどころに観葉植物が置かれている。よく磨かれた大きな窓ガラス近くのテーブルで、三人娘がホットドッグを食べている。噛むとさわやかな音を立てそうなサラダと、きれいに透き通った氷を浮かべたカフェオレも並んでいる。
 桃子は食べたり飲んだりしながら、しきりに話をしている。茉梨絵は、言葉少なだが的確に応じている。小雪は元気なくうなだれぎみで、たまに口を利いてもとんちんかんなことばかりである。
 小雪は、自家製ドレッシングを詰めた細長い小瓶を手に取り、カフェオレの上で傾けようとした。
 「ちょっと、小雪、それ、ドレッシングよ!」
 茉梨絵は、思わず小雪の細い手首をつかんだ。すんでのところでカフェオレに味が加わるところだった。
 「嫌だ。私、なにやっているのかしら?」
 彼女は、くぐもった声で言い、笑ったが、顔はこわばっていた。
 茉梨絵は心の底から友達を心配した。
 「小雪、やっぱり変だよ。この間も隣の教室にテストを受けに行っちゃったじゃない。一問目を解き始めるまで気が付かなかったんでしょう。あなたはいつも一人で耐えようとするけど、私たちの力が役立つのなら、頼っていいのよ。一人で悩むより、みんなで力を合わせた方が、物事はうまくいくと思わない?」
 茉梨絵は、ここ数日の友人の激しい変化が心配でならなかった。スポーツ大好き娘の小雪が、暗い表情で、肩を落としてキャンパスを歩いている。いつもの溌剌さが微塵も感じられなく、まるで思春期の男子のように、言葉数も減ってしまった。茉梨絵に桃子も同調した。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ノベル
◆ 執筆年 2008年2月11日