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 「茉梨絵、あの人だよ。知らないの?」
 桃子は声をひそめて言った。
 「知らないけど、どういう人?」
 「名前は知らないけど、法学部の二年生なの。元々は明るくてとてもいい人だったらしいんだけど、去年の夏頃からおかしくなっちゃったんだって。」
 桃子は、自分の頭の上で、人差し指をくるくる回してみせた。
 「あら、本当に。それはお気の毒ね。」
 茉梨絵は胸を痛めた。
 「講義もほとんど出なくなって、図書館とか構内の本屋とか食堂とかをうろうろしているんですって。そして、今みたいに、だれかれ構わずいきなり注意するらしいの。」
 桃子は急に黙って、考え込んだ。「どうかしたの?」と茉梨絵が聞こうとする矢先に、きっと茉梨絵を強い目で見た。
 「去年、あの人、小雪の部屋に住んでいたよ。今年の四月から一人暮らしを始める小雪の部屋を探したり、引越しの手伝いをしたりする時に、何度か擦れ違ったわ。」
 茉梨絵は妙な胸騒ぎがしてきた。
 「茉梨絵、あの人、ちょっと小雪に似ていない? 目とか眉の感じとか。ロングだし。引越しの最中に擦れ違ったとき、よく似ているなあって思ったのよ。」
 小雪はいつの間にか泣き止んでいたが、この時急に顔を跳ね上げた。
 「そうか。あの人は知っているはずだ。」
 小雪は立ち上がって、カフェから走り出た。
 「ちょっと、どうしたの?」
 桃子が追いついた。
 「あの人、本屋とかにいるって言ったわよね?」
 小雪は真剣な表情で桃子に質問した。
 「うん。」
 二人が本屋の中に入ると、はたしてあの女子学生は、書棚から書棚へと歩き回っているところであった。
 小雪は、つかつかと女に近寄った。女が振り向いたので、自然と二人は向き合う格好となった。
 「あの部屋のこと、教えてください。あのノートは前からあったの?」
 女が怪訝な顔をするので、小雪は説明を加えた。
 「私、あなたがいた部屋に住んでいるんです。」
 小雪がそのまま黙っていると、女は急におびえ出し、普通ではない感じで、喉から声を絞り出すようにして、泣き始めた。まるで小さな子どものようになり、まともな応答を期待することは無理のようだった。
 カフェの支払いを済ませてやって来た茉梨絵は、小雪と桃子に最も適切な判断を示した。
 「遼子先生のところへ相談に行こう。」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ノベル
◆ 執筆年 2008年2月11日