ノベル

本
prev

22

 茉梨絵は高岡に擦り寄って、ノートを裏返し、その部分を指で示した。
 高岡は小さな文字を確認するために、眼鏡の焦点を合わせ直して、しばらく考えていた。
 「記憶なんてあてにならないからね。私はイニシャルなんて書き記す習慣を持っていないけれど、若い時はもしかしたらそんなことをやっていたのかなって、ちょっと考えてみた。でもこれは私の筆跡ではないよ。私は今もそうだけど、昔からイニシャルをほとんど書いたことがないんだ。」
 高岡は役に立たないことをわびた。茉梨絵はこれ以上高岡から何か重要なことを聞き出すための糸口を考えられなかった。
 落胆している三人に高岡は逆に質問をした。彼はなぜノートの持ち主を探しているのか知りたがった。しかし、例によって遼子がうまく取り繕ったので、それ以上は穿鑿しなかった。話は大学の現状とか、遼子の研究内容とかに移った。さらに高岡は自身の仕事のことや新潟県の現状について滔々と弁じ始めた。女性に囲まれて話をするのが余程楽しいようであった。果てしもなく高岡の世間話が続くのを、遼子たちは数時間の間付き合わなければならなかった。
 結局、新幹線に乗るのは、夕方と呼ぶには早すぎるが、かといって昼と呼ぶには遅すぎるような時刻になってしまった。真相に迫るどころか、とんだ時間の空費になっただけのことだったので、疲れきった四人は終始車内では無言だった。桃子はかなりの自信を持って、新潟への調査に同調する意見を言っていただけに、特に落胆の程度がはなはだしかった。
 「璃鴎君、こういう結果になることがわかってて、わざと新潟に行かなかったんじゃないかしら?」
 桃子が慨嘆の溜息とともにこう言ったのが、車中で発せられた唯一のものだった。
 茉梨絵は、璃鴎の言動にもっと注意を払うべきだったと反省した。彼に考えがないわけないのだ。そのことは以前にも十分思い知らされたはずだったのだが、今回の事件はあまりにも明白な事実(と思えること)が既にわかっていたので、彼が新潟への調査に関心を示さないことを深く気に止めていなかった。璃鴎君がこの事件に関心を示していないはずがない。彼は何かをつかみ、何らかの行動を開始している。それは間違いない。だけど、一体璃鴎君はどんな事実をつかみ、何をしようとしているのだろうか? 事態はこれほど切迫しているのに、なぜ奈良県のフォーラムで発表する父親に同行したのだろうか? それはあまりにものんきなことに、茉梨絵には感じられた。それとももう璃鴎君の頭の中ではすっかり謎が解けてしまっていて、慌て騒ぐことでもないということなのだろうか? そこまで考えて茉梨絵の頭の中はこんがらがった。茉梨絵は車窓に見える一面の田んぼを眺めた。台風は東北の方に移動を始めたので、天候が落ち着いてきたが、まだ雲が多く、風も強かった。ことによると所によってはまだ大荒れするかもしれないので注意が必要だと、ケータイで調べた気象予報のサイトで警戒していた。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ノベル
◆ 執筆年 2008年2月11日