シナリオ

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亜矢子

 秀樹には佐藤亜矢子が好きだとか嫌いだとか、そもそもそういう感情すらない。現在もそうだが、当然今までも交際したことはない。それに、彼には目下恋人というものがいない。「恋人がいないのなら、状況によっては亜矢子と交際することも考えられるか?」と彼にきけば、きっと鼻で笑い飛ばすに違いない。何しろ彼はいつも亜矢子と、△△県庁舎の十七階、総務部広報課で口争いをしているのだから。
 今日も彼は、△△県庁舎の十七階、総務部広報課の窓から、コーヒーカップ片手に外を眺めている。

 「まったく、何でこんなに高い建物を建てる必要があったのか? 完璧に税金の無駄遣いだよな」などと、彼は暇があると、地方には稀なこの高層建築をけなしている。
 この建物はバブル全盛の時代に計画された、まことにぜいたくなものである。その後にきた不況を冷静に予測できていれば、もっと県民の身の丈に合ったものが建てられていただろう。これは、彼が周囲に披瀝する見解の要約である。ところが、そんなふうに文句ばかり言う割には、仕事の合間に頻繁に、見晴らしのよい窓越しの大河や山容を幸せそうに眺めている。約二年前、アメリカの9.11同時多発テロが起きた時は、県庁が攻撃を受けないことを真剣に祈ったものである。
 「亜矢ちゃん、もしもだよ、もしも攻撃を受けたとしても、二十階から上だよな」
 「ハァ?」
 「だからさ、その時は十七階に位置する広報課としては、なりふりかまわず即座に階段を使って下に避難すれば命だけは助かるだろう?」
 秀樹がテロの備えについて語っていることがわかった亜矢子は、あきれた目で彼を見た。
 「あなたねぇ、都庁ならともかく、こんな田舎の県庁を攻撃しても、世界に対する何のアピールにもならないでしょう? 秀樹って、バカねぇ。あら、その手にお持ちになっていらっしゃるのは、もしかしたら防空頭巾とかいうものかしら?」
 「ち、違うよ。最近あまりにも寒いからさ、椅子の下に敷こうと思って持ってきたんだよ」
 「椅子の下に敷いたら意味がないでしょう。バカねぇ」
 言い負かされて、横を向いてコーヒーカップに口を付けた秀樹を、腕を組んで見つめる亜矢子は、体の線に程よくフィットした紺のスーツがよく似合っている。化粧は決して派手でなく、賢そうだが、それでいてつんけんしたところはなく、いつもにこやかで、いかにも仕事ができそうな雰囲気で、それでいてほんのり女らしい、小作りの顔のキュートな美人だ。

 十七階から眺める景色はさすがにすばらしいものがある。どこまでも広がる山の裾野を眺めていると、休みを取って車を走らせたいという衝動に駆られる。秀樹がコーヒーを喉に流し込むと、後ろから声をかける者がいた。
 「秀樹さん」
 亜矢子の声だ。彼女は仕事の話をする時は、敬称を付けて彼を呼ぶ。それを聞くと彼の背中にぞわぞわとしたものが走る。
 「広報の企画記事の原案は決まりましたか?」
 秀樹も少し改まった様子で返事をした。
 「今回は自信がありますぞ」
 「一緒に係長に見せに行きましょうよ」
 亜矢子の目が、きらりと光った。
 「望むところだ」とすごい意気込みで言い放つと、秀樹はコーヒーカップを自席に置き、企画書を引っ張り出して、係長のデスクに向かって行った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日