シナリオ

5
取材
公用車の運転席に秀樹は不機嫌に腰掛け、ハンドルを握っていた。彼が不機嫌な理由は、昨日郵送されてきた封書の内容だった。それは、ヨーロッパ旅行への招待という大変喜ばしい知らせであったが、彼にとって一つだけ解決の難しい条件があった。ペアで参加しないとこの企画は成立しないのだ。ということは、恋人のいない彼にとっては、この招待状は紙くず同然である。顔を曇らせて黙り込んでいる秀樹にたまりかねた亜矢子は、あきれたような口調で話しだした。
「まだふてくされているの? 私たちは単なる県の職員にすぎないのだから、大きなニュースを扱うことはできないのよ。それでも地域の人たちにはけっこう役立つ情報を提供しているのだから、前向きな気持ちにならなくちゃだめじゃない」
「そんなこと気にしてねぇよ」
「うそおっしゃい。男のくせに、いつまでも未練がましくって、いやぁね」
亜矢子は、カメラの調子を確かめながら、さくさくと軽い調子で秀樹の態度をとがめた。
「おまえなんかに、今のこの俺の不遇さがわかってたまるものか」
「パシャ、パシャ」
亜矢子はファインダーをのぞきながら、ストロボを何度かたいた。
「腐っている独身男性、美女に八つ当たりの図」
秀樹は、ますますいらだち、険悪な表情になった。
亜矢子は、カメラをふきながら静かな声で言った。
「秀樹はよい文章を書くと思っているよ」
「広報なんか、誰だって書けるよ」
「かえって難しいのよ。だって、執筆者の個性とか思想を絶対出さないようにしないといけないのだから。生半可な人にはできないよ」
赤信号で停車して、秀樹は亜矢子を見た。
「本当にもう、俺の企画が通らなかったことは気にしていないんだよ。別のことさ」
「別のことって、何なの?」
秀樹が何も言わずにいると、亜矢子が催促したが、彼は取り合わなかった。信号が青に変わり、秀樹は急発進した。亜矢子は、「キャア」と小さな悲鳴を上げた。
「ヨーロッパ旅行に当選しちゃったんだよ」
それきり何も言おうとしないで、短大の駐車場に入り、慌しく取材の準備を始めた。亜矢子も準備をしながら、あれこれと穿鑿(せんさく)しようとした。早足で歩きだした秀樹を、亜矢子は機材を背負い、片手でバタンと車のドアを閉め、駆け足で追った。
「それなら、喜べばいいじゃないの」
スーツ姿の二人の横を女子高生が数人通り過ぎた。この短大は伝統ある私立高校の構内に併設される予定になっているので、まだ開設されていない短大の学生は当然歩いているはずもなく、キャンパスにちらほらと見受けられるのは高校生たちだった。
「もう! 秀樹の言っていること無茶苦茶よ」
「カップルで行くことが条件なんだよ」
「え?」
「男一人、女一人という組み合わせじゃないと旅行できないの」
「それが何でよくないのよ?」
彼は一瞬歩く速度を落とし、亜矢子の方へ顔を向けた。
「これ以上俺の口から言わせるつもりか」秀樹は照れ隠しに顔をそむけ、また早足で歩き始めた。亜矢子はやっと秀樹の困っている理由に思い当たり、にやにや笑いながら追いかけた。
「そっか、秀樹は彼女がいないんだ。アハ、そうか、そうか」
それから、横を向いて自分をにらんだ秀樹を見ながら、亜矢子はきわめて重大なことを、ごくさりげない調子で言った。
「私が行ってあげるよ。私、まだヨーロッパに行ってないんだ。大英博物館、ルーブル美術館、エッフェル塔、水の都ベニス、コロシアム。ああ、ヨーロッパは、私にとって憧れの場所なのよ」
秀樹は急に立ち止まり、妙な顔で亜矢子を見つめた。
「おまえ、何を言っているんだよ。八日間も同じ部屋で過ごすんだぜ、八日間も」
「別に私はいいわよ。ただ、秀樹がおかしな気持ちを起こさない自信がないんなら心配だとは思うけど」
「バーカ! そんなことあるわけねぇだろ。俺はただ一般論として、男と女がある期間一緒にいることについて、いろいろな心配をしているだけ」
「あら、私のことを女だと思っているんじゃん」
「戸籍上はそのはずだから、一応おまえの将来とかを考えてやっているんだよ。それ以上には何も問題ねぇよ。少なくとも、俺のほうには何のこだわりもねぇ」
「じゃあ、決まりじゃない。ヤッター! ルンルンルン。ヨーロッパだぁ、ヨーロッパ。念のために私、生物学的にも女だからね」
ニコニコしている亜矢子の横顔を、秀樹はのぞきこむようにした。
「おまえ、彼氏いないの?」
「さあ」
「さあって、おまえな、どっちなんだよ」