シナリオ

10
予防法
うららかな春の陽射しが高層ビルの窓から入り込む。県庁広報課のオフィスでは、秀樹が片手にコーヒーカップを持って、亜矢子のデスクに寄りかかっている。亜矢子は、苦笑したり、腹を抱えたりしながら、秀樹の書いたシナリオを読んでいた。読み終えると秀樹を見た。「面白かったわ。私が誘っているのね」
亜矢子は白い歯を見せた。おかしくて仕方がないというふうだ。
「だって、俺が誘いかけるように書いたら、変な誤解を受けるだろう。だいたい俺と亜矢子の間で際どい場面を想定すること自体が無理なんだよ」
「それはそうよね。それで結局際どい場面の予防としては、毎晩誰かに電話をかけてもらえ、ということかしら?」
「誰かって。とぼけるなよ。彼氏にだよ」
「さあ、それはどうだかわからないけど、何とか電話がくるようにしてみるね」
亜矢子がはぐらかそうとするので、秀樹はさらにつっこんだ。
「おまえな、彼氏にかけてもらうってはっきり言えよ」
二人がはしゃいでいるのを係長はやや顔を上気させて叱った。
「おまえらな、今は仕事する時間だぞ。真面目にやれ」
二人は素直に謝った。
自分の席につこうとする秀樹に亜矢子は声を掛けた。
「ねぇ、旅行の打ち合わせをしなくちゃ」
「仕事終わったら、メシでも食いながら打ち合わせするか?」
「いいね」
「じゃ、また声かけるよ」
うなずく亜矢子を確認して、秀樹は自席にコーヒーカップを置き、ノートパソコンを開いた。
打ち合わせ
駅前の並木道は、春の花であふれていた。夕暮れ時で、花の色もセピア色に包まれ始めていたが、香りは存在をよく主張している。秀樹と亜矢子はその通りを並んで歩き、カフェレストランの中に入った。「ねぇ、秀樹」
亜矢子は席に着くとすぐに話し掛けた。手を組み合わせてテーブルに乗せて、笑顔で秀樹を見る亜矢子はとても魅力的だ。秀樹が返事をすると亜矢子は突飛なことを言い出した。
「私が旅先で秀樹のことを本当に好きになっちゃったらどうするの?」
「おまえはそうやってすぐに俺の心臓を悪くさせるんだから」
「テストよ、テスト」
「テスト?」
そこへウェイターが注文を取りにきたので、二人は話を一時中断した。二人とも電車通勤なので、帰宅前に酒が飲める。
「赤ワインを飲まない?」と亜矢子は茶目っ気たっぷりに言い、秀樹の返事を待たずに注文した。ウェイターが品良くお辞儀をして去っていくと、亜矢子は話を続けた。
「私に彼氏がいたとして、それにもかかわらず私のことを好きになってしまったとき、さて、あなたはどうしますか?」
「それが何のテストだって言うんだよ」
「だって、男と女のことだから、私が秀樹のことを絶対に好きにならないって保証はどこにもないし、また、秀樹が私のことを絶対に好きにならないって保証だってどこにもないでしょ。だから、テスト」
「俺と旅行しても何の心配もないって、おまえは言ったじゃないか」
「それはそうなんだけど、日にちが近づいてくると、急に女は慎重になるものなのよ」
「それだから、問題を未然に防ぐために、規定集もつくったし、際どい場面の対処法も考えたんじゃないか」
「酒は飲むべからず、夜は携帯に電話をかけてもらうべし」
「何だよその言い方。それだけじゃ足りないって言うのか」
亜矢子は急に身を乗り出して、楽しそうに提案した。
「ねぇ、私、思ったんだけどさぁ。旅行の始めから最後まで完全にシナリオ化してみない?」
「何だって? つまり、行程表を少し詳しくしたようなものを書けって言うのか?」
「違う、違う。歩き方からセリフから、とにかく何から何まできちっと決めてしまって、私たちは映画の俳優のように、台本通りの行動をするの」
秀樹は、ワインを一口飲み、じっと考え込んだ。
「何を言っているんだよ! やだよ。この間のだってずいぶん苦労したんだからな。一から十まで全部書いたら一体どんな長いものになると思っているんだ」
「シナリオ大賞とか、私が申し込んであげるからさ。ね。きっと大賞取れるよ。賞金は半分こしてね。ワァー、今から楽しみだわ」
「冗談じゃないよ」
「お待たせしました」
ウェイターが料理を並べた。熱い料理を二人はしばらくの間黙って食べていた。そのうちに、フォークで肉を口に運びながら、亜矢子が真剣な顔で言った。
「本当に秀樹は才能があるよ。絶対面白いシナリオができるよ」
亜矢子の瞳がつややかに光った。肉とニンニクの香りを赤ワインで流し込むと、秀樹はなぜだか少し気分が高揚してきた。亜矢子と一緒にということはさすがに想像することをはばかれたが、誰か女の子とずっと一緒にいたいような気がした。亜矢子に彼氏がいないことがはっきりしていたら、アパートに誘ったかもしれなかった。でも、そんな思いはすぐ消えて、気分の高揚だけが残った。そういった気分が創作意欲に変わったのか、それとも、この間書いた名残がそうさせたのか、それともまた、熱い肉やニンニク、赤ワイン、濡れた瞳といったものが、彼に働きかけたのか、彼は判断をつかねていた。
「書こうかな」
亜矢子は瞳を輝かせた。テーブルの上で両手を組んで喜んだ。
「ヤッター!」
「亜矢子との間になんか、万が一でも間違いが起こるはずがないけど、念には念を入れて、完璧な防災マニュアルを完成させてみるよ」
「私との間に何かが起こることは秀樹には災害なのね」
「二人にとって、そうだと考えるべきだろ」
亜矢子は笑った。そして、ワイングラスを持った。そのグラスに秀樹は自分のグラスを軽く当てた。高く清らかな音が響いた。赤い液体に店のシャンデリアの光がきらきら揺れた。秀樹はその輝きを見ていた。亜矢子はあごを持ち上げてグラスを飲み干した。