シナリオ

11
旅行開始
空港に向かう電車にいる時から、すでに二人の演技は始まっていた。「秀樹」
秀樹とは色違いでおそろいのトレーナーを着た亜矢子は、彼の腕にしがみつき、にっこりと微笑んだ。
「亜矢子、荷物が重くないか」
「平気」
亜矢子はデイパックを背負い、さらにカメラバッグを肩に掛けていた。車内で立っている二人の横にはそれぞれのスーツケースが置いてある。
実は、今二人の間で交わされた言葉もシナリオに従ったものだった。秀樹の下書きには、亜矢子がしがみついたり、ペアルックを着たりする部分はなかったのだが、あまりよそよそしいと不自然だからと言って、亜矢子がカップルらしい情景をたくさん盛り込んだうちの一場面なのであった。
青葉が目にまぶしいゴールデンウィークのさなか。成田空港に向かう電車の中は超満員だった。ゴールデンウィーク中のヨーロッパ旅行をよくも賞品にしたものだ。異例中の異例ではないだろうか。しかし、そうでもなければ二人は長い休みを同時に取れなかったのだから、ありがたいことには違いなかった。
空港で一騒動
成田空港も人であふれていた。集合場所に着いてみると、添乗員はまだ姿を見せなかったが、早く着いたカップルたちが腰をおろして話していた。最寄のカフェテリアに入っていく者たちもいた。秀樹は朝食を摂っていなかったので、亜矢子を誘ってカフェテリアに入った。この辺はシナリオにはないことだった。席に着くと亜矢子はカメラバッグを空いている椅子の上に乗せた。何かに慌てた店員が振り向きざまに、その椅子につまずいて、どこかの客席に運ぼうとしたオニオンスープをバッグにぶちまけてしまった。とたんに、激しい犬の鳴き声がバッグの中から、少しくぐもった感じで聞こえてきた。
「キャーン、キャーン! キャーン」
「きゃっ、大変!!」
亜矢子はすぐにバッグのふたを開けた。グレーの小型犬がオニオンを頭に乗せて顔を出した。秀樹があっけにとられていると、犬はすさまじい勢いで駆け出し、しばらく店の中で暴れ回ったかと思うと、つかまえようとする店員たちの手を逃れ、空港内を駆けていった。
「ベッキー!」
亜矢子も駆け出した。秀樹も一緒に走った。
キャッシュディスペンサーの付近で、一人の男がしゃがんで犬を呼び寄せていた。その穏やかな眼差しと優しく太い声が犬の興奮を抑えた。ベッキーは男に優しく抱えられた。亜矢子は一瞬自分の目を疑った。「どういうつもりなの」とその男に言いかけたが、危うく口をつぐんで、丁重に礼を述べた。
秀樹は亜矢子の動揺にはまったく気付いていなかった。
「ベッキー、大丈夫? もう熱くない?」
彼女は、タオルで犬の頭を優しく包み込むようにして拭いた。
少し落ち着きを取り戻した頃、秀樹は亜矢子をたしなめた。
「犬を持ち込んじゃ、まずいぞ」
「だけど、私の部屋には置いておけないし」
「ペットホテルとかあるだろう。それにセキュリティ・チェックを通らないだろう」
「小さいし、ちゃんとしつけてあるから問題ないよ。それに、こんなに小さい犬だから、おなかに隠せば平気だよ」
「ほら、見て」
亜矢子は、トレーナーをまくって見せた。胸の部分の裏側に大きな隠しポケットがある。
「私が作ったのよ」
彼女はそこへベッキーを入れて、服を元に戻した。すると、グラマーな女性だなと誰もが感じるような外見になった。ベッキーがまた役者である。ピクリとも動かないで、飼い主とまさに一心同体になっている。
「これなら金属探知機のゲートをくぐっても心配ないでしょ。犬族探知機ならばれちゃうけどね。それにしても、この子は本当におとなしいでしょう。こうしないと一緒にヨーロッパに行けないことがわかっているから、この子も一生懸命なのよ」
「こんな大騒ぎになって、よく言うよ」
「店員がスープをこの子の上にぶちまけるからよ。そういう非常事態さえなければ絶対大丈夫だって。ねぇ、ベッキー」
彼女が犬の小さな顔を覗き込むようにして優しく体を撫でると、「アン」と気持ちよさそうに鳴いた。犬は両耳を寝かせた。秀樹はあきれながらも少しだけ犬のことを愛らしく感じた。ベッキーの耳がぴょんと立った。先程の店のスタッフが切迫した様子で走ってきたのであった。店員たちは直立不動で秀樹と亜矢子の前に立ったかと思うと、深々と頭を下げた。
「誠に申し訳ございませんでした」
スープをかけた男は土下座までしてみせた。間髪を入れずに店長とおぼしき男も謝罪した。
「私どもの落ち度でご愛犬にお熱い思いをさせてしまいまして、大変申し訳ございませんでした。これはほんのお詫びのしるしですので、どうぞお受け取りください」
差し出す包みを、二人は丁重に断ったが、相手が腰を曲げたままの姿勢で動こうとしないので、結局それを受け取った。
「お食事の用意が整っておりますのでどうぞこちらへ」
ぶちまけた店員が土下座したまま申し述べた。店長風の男が先に立って案内した。土下座していた店員は立ち上がると、ベッキーをつかまえてくれた男が彼らの仲間と思ったのか、一緒に案内した。
朝食にしてはなかなか豪勢な料理が並んだ。秀樹と亜矢子はナイフとフォークを動かしながら目を合わせて笑った。秀樹が穏やかな顔つきの男に尋ねた。
「あなたのお名前は?」
「えっ、僕の名前ですか? えーと、はい、橋本歩夢と申しますが」
彼は所在なさそうにもじもじとしていた。
亜矢子は不愉快な気持ちをこらえて、自然な目つきで歩夢を見るように努力していた。
一方、秀樹はこのおどおどした青年と亜矢子に何らかの関係があるのではないかとは思いもしなかったし、それ以前に、亜矢子が歩夢に対して取る態度に少しも注意を払っていなかった。
「ところで、歩夢さん」
秀樹は突然、何かを思いついたという様子で質問した。
「はい!」
歩夢は急に背筋を伸ばした。
「あなたもあのデパートの懸賞に当選したのですか?」
「えっ? 何ですって」
秀樹は、カップルでないと参加資格を失ってしまうという、この風変わりな懸賞旅行について説明した。歩夢は真面目に、しかも楽しそうに話を聞いていた。歩夢が何も言葉を挟まず、「うん、うん」とうなずいて聞いているので、このままではきりもなく話しつづけてしまいそうだと思い、秀樹は適当なところで区切りをつけた。そして、一旦間を置いて再び彼に質問した。
「ところで歩夢さん」
「はい!」と彼はまた緊張した。
「あなたはどちらへ旅行なさるのですか?」
「僕は取材旅行でイギリスの大英博物館とフランスのルーブル美術館、イタリアの遺跡などを見て回ります」
「飛行機は×時の×便ですか?」
「ええ、そうですよ」
「何日まで? ホテルは?」
歩夢の説明で、行程が自分たちとほとんど同じであることを秀樹がどう受け取るかと、亜矢子はひやひやしながら聞いていた。そう思っている矢先に秀樹がかなり興奮してしゃべりだしたので、亜矢子はびくっとした。
「それは面白い! 僕たちとほとんど同じじゃないですか。この旅行中にまたご一緒できるとよいですね」
秀樹はきさくに握手を求めた。歩夢はどぎまぎしながら握手を返した。亜矢子は二人を交互に見ながら複雑な思いだった。
歩夢は突然、「あっ」と小さく声を立て、はじかれたように体を動かし、上体をうつぶせるように低くした。何かにおびえているようだった。
「どうかしましたか?」
「しっ!」
歩夢は、秀樹を制して店の入口をじっと窺っている。そこには、派手で目つきの悪い若い男が、大きな態度をして中に入ってきたところだった。男はしばらくきょろきょろしていたが、空席を見つけるとすぐに腰掛けて、メニューに目を落とした。歩夢は顔を伏せながらその男の様子を窺っていたが、意を決したように腰を浮かすと、「それじゃあ、あちらで会いましょう」と言って、こそこそと小走りで店から出て行った。