シナリオ
14
亜矢子の趣味
大英博物館を見たがった亜矢子は、エジプトの遺品の一つ一つにまさに見惚れていた。ピラミッド。ツタンカーメン。死者の書。亜矢子はエジプトの文明は神秘的でかつ科学的だと思った。構図や配置などが幾何学的で、太陽や月の運行まで計算して設計されている。彼女は古代の人々の生み出した数学的な世界に心地よさを味わった。「亜矢子、置いてっちゃうぞ」
亜矢子がはっと我に返って振り向くと、秀樹が退屈そうな顔をして立っていた。
「おまえは、不思議な能力を持っていたり、神秘的な遺跡に心惹かれたり、本当に変わっているよな。ツアーの人たちは先の方にいっちゃったぞ。早くいこうぜ。そんなに面白いかなぁ」
彼は亜矢子が鑑賞している石像の前に立って、注視してみた。
「うん、いくら見ていても飽きないよ。だって、ここにあるものは、私たちが高級ブランド品として大事にしている持ち物なんかよりずっとずっと貴重な品なのよ。昔の身分の高い人がそういう物をどういう思いで使ったり飾ったりしていたのかなって想像すると、胸がわくわくしちゃうの。秀樹が大事にしてる高価なものを考えてみなよ。車とかオーディオとかパソコンとか、先端技術を駆使した物を思い浮かべてみて。エジプトの遺産は、現代でいえばそういう物よ。ううん、私たちのような庶民の次元で譬えることなんかできないわ。当時の最高峰の頭脳が一握りの特権階級のために振り絞った英知が結集されているんだから。彼らは神の国を頭に浮かべ、宇宙を思っていたに違いないわ。ここに展示されているものを見ているとその姿がふっと見えてくるような気がしてくるのよ」
目を輝かして熱く語る亜矢子を変わった女だと思いつつ、それでも愛すべき者には違いないと、秀樹は微笑みながら見つめていた。
その時だった。歩夢と例の人相の悪い男が、少し離れたところで向かい合っていた。男は手に持っている何かで歩夢を脅しているようだ。大きな展示用のガラスケースをいくつも間に挟んでいるのでよくはわからないが、何か黒っぽいものを歩夢に突きつけているようだった。
秀樹は、口元を引き締めて亜矢子に目配せした。
亜矢子も何かを感じてさっと振り向いた。亜矢子は一瞥しただけで秀樹に向き直り、目を見開いた。
「大変!!」
「亜矢ちゃん、急ごう!」
二人はなるべく音を立てずに走り、男の背後に近づいた。歩夢が必死の顔で男に訴えている。
「栄治、だめだよ。そんなことをしちゃいけないよ」
亜矢子も男の背後から声を掛けた。
「そうよ。どうしてこんな場所でそんなひどいことをしようとしているの」
「そうだ、手に持っているものをこっちにおとなしく渡すんだ」秀樹も強く迫る。
人相の悪い男は当惑して二人に振り向くと、手に持っていたものを無造作に秀樹に手渡した。一瞬本当に自分の手に拳銃が渡されたのかと思い、秀樹は気が動転した。しかし、手の中にあるのは拳銃などではなく、ただのデジタルビデオカメラであった。
「あれぇ!? これDVカメラだぜ。どうなってるんだぁ?」
秀樹がカメラを亜矢子に見せると、彼女も首をかしげた。
「てっきりあの夢が現実になったと思い込んでいたけど、一体どういうことかしら? わけがわからないわ」
「わけがわからないのはこっちの方だぜ。なんだおまえらは? ここには日本人の係員もいるのかと思ったけど、どうもそうじゃねぇみてぇだな。とっさにカメラを渡しちまったけど、大英博物館は撮影は禁止してないんだぜ。おまえら一体どういう権利があって俺に指図なんかしやがったんだ」
体格のいいその男が凄味の効いた顔で啖呵を切ると、さすがに秀樹は動揺したが、気を張って負けずに男に言い返した。
「俺たちが勘違いしたことは悪かったよ。この通り、申し訳ない」
秀樹はぺこんとお辞儀した。しかし次の瞬間には鋭い上目づかいに変わった。
「でも、あんた、その人を脅していただろ! 俺たちは歩夢さんの知り合いなんだよ。知り合いが困っているところを見過ごせるわけないだろ」
男からは先程までの威圧感がすっかり抜け、半ばあきれた表情になった。
「ワハハハ。俺が歩夢を脅してただと。よせやい。俺が展示物をカメラに収めようとしたら、撮影禁止だと思い込んだ歩夢に止められちまったんだよ」
それを聞いた秀樹と亜矢子は顔を見合わせた。亜矢子がきまり悪そうに言った。
「私たち、遠くて見えなくて、歩夢さんが必死の形相をしていたから、てっきり……」
「てっきり、なんだよ?」
男が追求した。
「拳銃で脅していると思ったのよ」
男は笑ってあたりを見回した。静かな展示室を欧米や日本から訪れた観光客がゆっくり歩いていた。
「こんな場所で拳銃を見せびらかす奴は、よっぽどどうかしちまってるぜ」
「それはまあそうね」
亜矢子は男の笑いにつられて少し口元をゆるめたが、すぐに厳しい表情になった。
「それはそうと、あなた一体何者なの?」
「怒った表情もいいね」
「え?」
亜矢子はとまどった。
「俺、成田空港で一目見たときから、ずっと気になってたんだぜ」
「もう、からかわないでよ」
「からかってなんかねぇよ。俺はいつだって本気だぜ」
「おい、俺の前で亜矢子を口説くのはやめてもらおうか」
栄治はその瞬間に虎のような目で秀樹をにらみつけた。
「彼氏、どうするよ。彼女が俺に惚れちゃったらよぉ」
秀樹は相手にしていられないという表情で歩夢の方を振り向いた。
「歩夢さん、あなた、本当にこんな柄の悪い奴と知り合いなんですか? 空港のカフェでは、この男から逃げ回っているような感じだったし」
栄治は鋭い目を今度は歩夢に向けた。
「なんだよ、それは一体どういうことなんだよ。なぜおまえは俺にこそこそ隠れて歩き回っているんだよ?」
歩夢は消え入りたそうな表情をしていた。彼にとって状況が複雑すぎたので、簡単に説明をつけられそうにもなかった。何も言わない歩夢の背を、業を煮やした栄治が大きな手のひらで叩いた。