シナリオ

17
初めての夜
ウィンザー城の近くの由緒ありそうなホテルの部屋で、秀樹はぐったりした様子でベッドに身を投げ出した。彼にとっては、まったく長い一日だった。あの後、ホテルのホールでパーティーと称する夕食会が開催された。それも終わり、やっとプライベート・ルームにたどり着いたのだ。彼はこのまま眠りたい気分だった。しかし、亜矢子と初めて二人でホテルの一室で夜を過ごす、という企画も無事にこなさなければならなかった。亜矢子は、犬のベッキーをバッグから出してやると、鏡の前に立たせて毛並みを整えてやっている。犬はその間中ずっとおとなしく座っていた。それが終わると、彼女は着替えを持ってバスルームに入った。入る前に秀樹に、「私、先に着替えてもいいかしら」と声を掛けた。「ああ」と秀樹は答えた。彼女は、「ベッキー、おとなしく待ってなさい」と犬に声を掛けてからバスルームに入っていった。ベッキーは、従順な様子で、「ワン」と返事した。
秀樹が亜矢子と初めて共にする一夜は、終始こういう具合だった。それは、二人の当初の計画どおり、何事もなく平穏な一夜だった。
ダブルベッドに横たわっていた秀樹は、ゆっくり起き上がり、羽毛の掛布団をまっすぐ整えた。それから彼は、着の身着のままでソファに横たわり、目を閉じた。
「あら、秀樹。別に一緒のベッドで寝てもいいのよ」
着替えを済ませた亜矢子がバスルームから出て来て声を掛けると、秀樹は亜矢子を振り向いた。
「おまえなぁ、少しは警戒しろよ。今夜の俺は欲望に燃えたぎっていて、おまえが近づいたら野獣のように襲い掛かるかもしれないじゃないか」
秀樹はわざと燃えるような瞳で亜矢子を見つめた。
「私、あなたのことを全面的に信用してるもん」
亜矢子は秀樹から視線を外し、ベッドにもぐりこんで再び秀樹の方を見た。
「ねぇ、秀樹」
「なんだよ」
「本当にお酒を飲まないつもりなの?」
亜矢子の瞳は透きとおっていて、神聖な光を帯びていた。それは美しいのだが、決して艶美なものではなかった。あくまでも端麗な美しさだった。
秀樹は、亜矢子の目を見ていると、エジプトの遺跡に描かれている女を思い出した。その幾何学的な目が自分を吸い込んでしまうような錯覚を感じ、ごろりと体の向きを変え、天井を見た。ゴシック様式の装飾が時代を感じさせると共に厳粛な趣を醸し出していた。秀樹はそのままの姿勢で話した。
「亜矢ちゃんて、何を考えているのかわかんねぇな」
「え?」
「今まで職場で一緒に仕事してる時と、今こうして旅行してみてでは、亜矢ちゃんに対する見方がちょっと違うんだよな」
「今までは私にどういうイメージを持っていたのかしら?」
亜矢子も上を向き、天井の優雅な模様を眺めた。
「負けず嫌いで、でしゃばりの効率主義」
「今はー?」
彼女は口を尖らせ、少しむくれた。
「あてどなく魂のさすらう、陶器製の神秘主義」
「何のことよ、それ! わけわかんない。あんたねぇ、前々から私のことを不当に女扱いしないと思っていたけど、そういう点では少しも進歩していないよぉ!」
「何だよ、不当って? それって言葉の遣い方、間違ってないか?」
「じゃあ何? 私が女扱いされないのは必然性があるということ? それってちょっと、ひどくない?」
「ちょっと待てよ。その前にさ、進歩ってどういうことだよ? 進歩ってさぁ」
「進歩は進歩のことよ」
「答えになってねぇだろ。じゃあ、何かい? 俺がおまえを少しでも女扱いするようになったら、それは俺が少し大人になったことを意味するっていうのか?」
「だって、私の素晴らしさにまったく気がつかないで、神秘主義だとか陶器製だとか、ひどいことばっかり言うんだもん。だからあんたはいつまでたっても彼女ができないのよ」と言ってしまってから、思わず、「ひゃっ!」と声を出して、亜矢子は口を手で覆った。遅かった。亜矢子の頭は一瞬ガーンと痛くなった。秀樹は結構思いっきりひっぱたいた。
秀樹はそのまま反対側を向いてしまった。彼は本当はそれほど怒ったわけではないのだが、亜矢子の何気ない一言で、胸の痛む過去の出来事を蘇らせ、気持ちが沈んでしまったのだ。しかし、しばらくすると、あまりに疲れたためか、彼はすっかり寝入ってしまった。
そうとは知らずに亜矢子は、もう平気かなと思って、「秀樹」と、そっと呼び掛けた。そんなに硬く考えなくったって、お酒の一杯ぐらい一緒に飲んだっていいじゃないと思い、繰り返し呼ぶが返事がない。
「秀樹?」
まだ怒って寝た振りをしているのか、それとも本当に寝付いてしまったのか、あれこれ考えながら亜矢子は彼にそっと近寄った。安らかな横顔だ。顔をかなり接近させてみた。かすかに寝息が聞こえた。
「何だ、本当に寝ちゃったんだ」
亜矢子は白っぽいスウェット・スーツ姿で冷蔵庫の前に立ち、大きく伸びをした。急に疲れが襲ってきたような感じがした。秀樹と何かを飲もうと思っていたのだが、彼が眠ったとたんに、眠気が催してきた。電灯のスイッチに手を伸ばしかけて、ちょっと考えて、秀樹の横顔の、ひげでちくちくする頬に軽く唇を当てて、「おやすみ秀樹」と言い、電灯を消し、ダブルベッドの冷やっとした感触の中に身をゆだねた。