シナリオ

18
パリ観光
観光バスが雑踏の中に停車し、日本人の一行がぞろぞろと降り立ち、添乗員の周囲に集まった。「こちらパリ市内では終日自由行動となります。あそこに見えますのが、エッフェル塔でございます。凱旋門、ルーブル美術館もここからすぐ近くの所にあります。その他にも有名な観光地が数多くありますが、詳しくはバスの中でお渡ししました弊社のパリ市内観光案内図を御覧下さい。なお、今夜の夕食は各自でということになっておりますので、パリの味覚を存分に堪能していただければと思っております。もしまだ行く先が決まらないという方は、モデルプランがございますので、お申し出ください。それではどなた様も今日一日のパリ観光がよい思い出になりますことをお祈りしております。どうぞご出発になってください」
添乗員が一通り説明し終えると、ツアーに参加したカップルたちは、それぞれの立てた計画に従って思い思いに散策を始めた。
「おーい! 亜矢ちゃーん!!」
周囲の人々も振り向くほどの大声を張り上げ、歩道を歩き始めた亜矢子に手を振るのは、例の自称科学者、北川栄治だった。隣りを歩く秀樹の顔が急に曇った。
亜矢子は栄治に対してそれほど嫌悪感を抱いていなかったので、「北川さーん! おはようございます!」と、元気よく挨拶した。ベージュ色のパンツ。白い木綿のざっくりしたシャツの胸元のボタンを二つ、三つはずし、そこから淡い黄色のTシャツをのぞかせている。銀色のネックレスが胸元をさりげなく締めている。薄手のブルゾンは、現在のパリの気候にぴったり合っている。
栄治は街の喧騒の中に立つ亜矢子が、くっきりと際立っていると思った。
「亜矢ちゃん、昨日は一日会えなかったからさぁ、寂しかったよ」
全力で走ってきた栄治は、手を膝について大きな肩を動かして、息を弾ませていた。
「昨日はどこへ行っていたの?」
「ベルサイユ宮殿」
「えーと、あれだろ。イギリスからはユーロスターに乗ってパリに入ったんだろ?」
「そう、昨日の朝ロンドンを立ったんです」
栄治は両手を合わせ、泣きそうな顔をして二、三秒無言で亜矢子を見詰めた。通行人の多い通りなので、職場へ急ぐ紳士や颯爽と歩くお嬢さんなどが、大げさな動作で彼らを避けている。
「亜矢ちゃん」
「はい」
「お願いだから、君たちの日程を俺にも教えてくれよ。昨日は、歩夢とあちらこちら探し回ってよ、本当に大変だったんだぜ」
亜矢子の目が、エンゼルフィッシュの胴体のように真ん丸くなった。
「だってあなたたちにはご自分の仕事があるでしょう!? 私たちの旅程を知ったって、それに合わせて行動できるわけでもないでしょう?」
「それはまあ全部は無理でもさ、ほら都合の付けられる範囲では一緒に行動できたらいいな、なんてね」
秀樹は不審そうな顔で栄治を見つめた。
「あんた、静電気の研究をしている科学者だなんて、やっぱり嘘なんだろ。公開実験を控えているのに、観光客の名所めぐりの後を付け回すことなんかできるはずないもんな。俺の勘で言うと、見かけどおりにいかがわしい商売をしていて、かつ暇を持て余して仕方がないってところじゃないのか」
それを聞くと栄治は、目をひん剥いて秀樹を睨み、今にもつかみかかろうという勢いになった。
亜矢子はぎゅっと秀樹の腕にしがみついた。
「秀樹、そんな言い方は失礼よ。ほら、謝って」
「そうだ、亜矢ちゃんの言うとおりだぞ。俺はな、悪いけど結構こっちの方じゃ知られているんだからな。今日だって、パリ市内の研究所の招待で静電気電池の公開実験をすることになっているんだ。暇だなんて大間違いだぜ。へっ、田舎者のヨーロッパお上り旅行とはな、大違いだよ、大違い!」
「ひっどーい! その言い方。栄治さん、私も同じ田舎から来たんだから」
栄治は、「ひゃっ」と言って、慌てて口を押さえ、大きな体を縮ませるようにして、亜矢子をなだめ始めた。
「あのー、そんなつもりじゃなくてね、ほら、だって亜矢ちゃんはヨーロッパ初めてじゃないでしょ。だったら、決して……」
「私、ヨーロッパ初めてなの!」
亜矢子はぷんぷん怒っている。
「あーあ、知らねぇよ」と、秀樹。
栄治は弱りきって、「じゃあさ、今日の公開実験の入場者はもう締め切ってあるんだけど、特別に入らせてあげるよ。それで何とか許してくれないかな?」
「公開実験か……」
亜矢子は興味を持ったが、一度逆立った柳眉は容易に元に戻りそうになかった。
「ふん。別にいいもーん」
そして、すたすたとエッフェル塔に向かって歩き出した。その後を栄治は腰をかがめて歩き、あれこれと言い続けている。
秀樹は歩夢と顔を見合わせた。歩夢は暑くもないのに汗を流しながら目をきょろきょろさせた。自分の友達の振る舞いに気が引けているのだろうかと、秀樹はこの寡黙な青年の心中を察した。それにしてもグレーやクリーム色をつかったいでたちはまったくぱっとしなく、彼の存在をますます薄らがせるためだけに役立つようだった。秀樹が小走りで歩き出すと、歩夢も遅れないように後ろから付いていった。