シナリオ

19
口説かれる
ルーブル美術館の通り沿いにあるベンチの一つに、秀樹はぐったりした様子で腰を下ろした。「俺はもう疲れたぜ。悪いけど先にホテルに戻って休ませてもらうわ」
亜矢子は秀樹の横にぴったり座って、一生懸命なだめた。
「ちょっと、ちょっと。まだ三時よ。もう一つぐらい何か見に行かなくちゃ、もったいないじゃない」
「もうじゅうぶん見て回ったよ。あんまり一遍に見たら消化不良を起こすしさ、次回来る時の楽しみがなくなるじゃん」
秀樹は両足を投げ出してのけぞった。頭で思っていたより相当長い距離を歩いたので、足のあちこちが痛くてだるかった。
「何言っているのよ。ノートルダム大聖堂とコンコルド広場とルーブル美術館の三箇所しか見てないじゃない」
亜矢子は腕組みをして秀樹を見下ろした。
秀樹はベンチの背もたれに右腕を回し、セーヌ河を航行する遊覧船の方を見て、ぼそぼそつぶやいた。
「凱旋門も見たし、エッフェル塔にも登ったじゃないか。本当はルーブル美術館を見るだけでも相当なもんだよ」
亜矢子は秀樹の横顔に顔を近づけて、かみつくように言った。
「何か言った!?」
「いや……」と秀樹は慌ててかぶりを振る。
「とにかくあと一つは何が何でも一緒に見るの」
「だから、一人で見て来ていいよ」
「それだと、ツアーの他の人たちに怪しまれるでしょ!」
ぐったりしている秀樹に亜矢子は牙をむいたようにして、かみつきかからん勢いで対峙した。
亜矢子の前に立っていた栄治が、ここぞとばかりに主張した。
「亜矢ちゃん、だからさ、俺がさっき言った通りに公開実験においでよ」
亜矢子は急にその気になってきた。秀樹の方を向けていた顔を栄治の方へと向け直した。
「でも、ご迷惑じゃないかしら。北川さんはお仕事としていくわけだから、足を引っ張ることになったら申し訳ないわ」
朝方は拒絶した勧誘を、今は目を輝かして受諾したのはどうしたわけだろうか。旅の疲労ゆえ冷淡になった同伴者にいささか愛想が尽きたのか、耳障りのよいことばかりを言う新規加入者に若干の興味を持ったのか。
栄治は、これはいけるかもと、自然に顔がにやけだした。それからちょっと気取ったしぐさで、恥ずかしげもなく口説きだした。
「迷惑なんてとんでもない。君に僕のライフワークを少しでも知ってもらえたら、僕はそれだけでもうれしいのさ」
そして、亜矢子の肩に手をそっと置こうとしたが、彼女はさりげなくかわして、セーヌ河に視線を移した。
秀樹はさっきとまったく同じ姿勢でセーヌ河を眺めていた。やや冷たい春風を嫌って彼は帽子の鍔を少し押し下げる。
歩夢は彼らの脇に所在なさげに黙って立ちっぱなしでいた。誰も彼に気をとめる者はいないが、注意ぶかく彼を観察するものなら、彼がこの時もちらちら亜矢子の方を気にして、何か言いたそうな、不安とも何ともつかない複雑な表情をしているのがわかるはずであった。しかし、三人は彼を黙殺していた。黙殺していたのではないが、ひとりでにそういうふうになってしまうのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらって、お邪魔しちゃおうかしら」
亜矢子は明るい笑顔を栄治に見せた。
「でも近いの? 歩いていける?」
「歩いてもいけない距離じゃあないんだけどね……」
栄治が颯爽と片手を挙げると、彩りの鮮やかなタクシーが停まった。栄治が亜矢子を乗せようとすると、彼女は秀樹の腕を引っ張った。
「俺はいいよ。おまえだけ連れて行ってもらえよ」
「ちょっと、何言っているのよ。一緒に行くことにしたんだから、観念しなさい!」
亜矢子が強く秀樹を引っぱるのを栄治は止めようとした。
「亜矢ちゃん、無理に連れて行かなくても……」
「だめ!」
強い剣幕だった。
「このツアーでバラバラに行動してたら、みんなに不思議がられるじゃない。旅行が始まったばかりなのにぼろが出たら困るのよ。他の人から奇異な目で見られながら何日も過ごすのは絶対にいや!!」
タクシー運転手がフランス語でどなったので、あせった亜矢子は力を振り絞って秀樹を押し込めた。
栄治は額に手を当てて嘆き、後部座席の亜矢子の隣に座った。運転手は怒りに震える指先で助手席の外に立っている歩夢をさした。栄治はもう破れかぶれだった。
「おい! 歩夢、早く乗れよ!!」
「あ、うん。じゃあ、そうさせてもらうよ」
歩夢がのろのろ助手席に乗り込むと、栄治はフランス語で行く先を告げた。
「シャンゼリゼ通りの△△ホテル」