シナリオ

25
亜矢子と栄治
一方、公開実験の会場を先に出た亜矢子たちは、パリの街中をぶらぶら歩いていた。亜矢子はあれにもこれにも目を止め、感動して声を出していた。
チーズを切って並べている光景を、亜矢子がショーウィンドウにへばりついて見ていると、栄治がこっちだよと声を掛けた。チーズに名残を惜しみつつ、亜矢子がついていくと、長蛇の列の最後尾に栄治は並び、手招きした。
「すごい列ね。ここは何のお店なの?」
客を入場制限するために店員が何人も出てアナウンスしていた。栄治の声が聞き取りづらいので、亜矢子は耳を近づけ手を当てた。
「ここがエルメスだよ。バッグでもなんでも買ってやるよ。」
「うわー! ここがあの有名なエルメスなの? すごい! 日本人が多いねぇ」
彼女はしきりに感心して、しばらくの間はショーウインドウの服や店内に陳列してあるバッグや香水を見ていたが、何か遠くの方に目をやったかと思うと、列から抜け出して小走りに歩いていってしまった。
「おーい! 亜矢ちゃん。どこ行くんだよ?」
栄治は自分の確保した順番を手放すのを惜しそうに列から抜け、とたんに後ろの人たちに隙間を詰められてしまったことを無念そうに眺めながらも、亜矢子を追って駆け出した。
「せっかく並んだのにもったいないなぁ」
栄治は追いついてそう言った。
「あら、北川さんは一人でお買い物してくれていいのに。私はちょっと面白そうな店が目についたので」
まったく意に介さないようである。
「俺が一人で買っても意味ないじゃん。亜矢ちゃんにエルメスのバッグを買ってやろうかなって思っていたんだから」
「あら、うれしいけど、私、エルメスは好きじゃないの」
「なんだそうだったのか。だったら、シャネルはどうだい? シャネルもすぐ近くだよ」
亜矢子は笑って首を振った。
「いいの、いいの。シャネルもルイ・ヴィトンもいらないのよ。私、ブランド物には少しも惹かれないの。変かしら?」
亜矢子はとびきりキュートな笑顔を見せた。栄治の胸はキュッと締め付けられた。ブランド物に興味がないのに、小さな顔、愛らしい目、センスのよい着こなし、体つき、姿勢、しぐさ、それらが醸し出す彼女の全体が最高級なブランド物のように見える。亜矢子には確かにエルメスのバッグは必要ないと思った。
「全然変じゃないさ。だいたい、やたらとブランド物をほしがる奴は、俺もそうだけど、世間に価値を認知されたものを身に付けないと、不安なんだよ。確かに亜矢ちゃんみたいないい女は無理にそんなものを身に付ける必要はないな」
「ちょっと、ほめすぎよ」
「そんなことはないさ。本心で言っているんだ」
栄治は、急に真面目な顔をして、じっと亜矢子を見つめた。亜矢子はさっと視線を外して、にぎやかな色彩の店の前まで走った。
それはガラス張りの安っぽい店だった。原色の黄色や赤などで装飾した軽食屋である。ガラスの中で料理人が鉄串に刺した大きな肉をぐるぐる回してあぶっている。
「ねぇ、中に入ってもいい?」
「え? あ、ああ。ケバブ・サンドね。パリじゃそれほど珍しいものじゃないけど、初めて見ると驚くよね。じゃあ、とりあえず、あいつで腹ごしらえするか」
彼はしゃれたフランス料理店に連れて行くつもりでいたのでかなり残念だったが、彼女の行動を止められるとは到底思えなかった。
「やったー!」
安っぽい椅子にかけると、しばらくして安っぽいテーブルに安っぽい皿が運ばれた。
運ばれてくるまでずっと亜矢子は料理人の動きを眺めていた。あぶった肉を大きなナイフで薄く削り取り、野菜を乗せたパンの上に幾片も落とし、ケチャップをつけて上からパンではさむ一部始終を。
「おいしー!」
亜矢子はパンの間からはみ出たケチャップで口の周りを赤くしながらむしゃむしゃ味わっていた。
「肉の香りとうまみが何ともいえないわね。何の肉かしら?」
彼女は口の周りのケチャップを拭き取った。
「この店は羊の肉を使っているみたいだ」
栄治はたいしておいしくもなさそうに、三口ぐらいでたいらげて、こともなげに言った。
「この店はって言うと、他にはどんな肉を使うの?」
「それこそ牛もあるし、鶏もあるよ」