シナリオ

飛行機
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26

 店を出ると、亜矢子はますます楽しそうに歩いた。
 「ケバブも食べておなかいっぱいだし、なんだかとても楽しいわ。パリっていい所ね」
 「そ、そうだね」
 彼は何か彼女の心に残るような贈り物をしようと、あれやこれや名店に案内することに躍起になっていたが、亜矢子は辻々の大道芸に見入ったり、変わった建物に夢中になっていたりで、首尾よくいかなかった。
 すると、急に亜矢子が甘えるようにねだった。
 「北川さーん」
 「うん、どうした?」
 「私、あれがほしいな?」
 彼は、ようやく自分の出番かと思い、気負い込んで返事した。
 「なんだい? 何でも言ってくれよ。君が望むものなら何でも買ってやるぜ」
 「本当?」
 「べらんめえ、あたりきよお!」
 「うれしい! 私ね、あれがほしいの」
 亜矢子が指さす方を見ると、何のことはない、下級の物売りがグレープフルーツをジュースにして売っているだけである。スタンドの汚れた台の上に乗せた鈍い光のステンレスのコップに、つぎはぎだらけの服を着たアフリカ系移民とおぼしき痩せた男が、簡単な道具を使ってグレープフルーツを絞っていた。栄治は、あれを飲んだら体のデリケートな日本人はすぐに腹を壊すのではないかと思ったが、亜矢子に言っても無駄な気がしたので、捨て鉢気分で売り子に声を掛け、ジュースを一つ注文した。
 「北川さんは飲まないの?」
 「お、俺はー、あまりジュースは飲まない習慣なんでね」
 「つまんないー。あんなにおいしそうじゃない。新鮮できれいな色をしているわ。せっかくだから、一緒に飲もうよ。飲もうよー、ねぇ、飲もうよー、……」
 亜矢子の心優しい勧告は、栄治が受諾するまで永久に続くかに見えた。
 「わあった、わあった。(これからはフランス語で)おっさん、もう一つくんな」
 黒い顔の物売りは、あまり衛生的とは言えないステンレス製のカップを亜矢子に渡し、そのあとすぐに栄治にも渡した。
 それを亜矢子はごくごくと三口で飲んだ。
 「うまーい! ジューシーで、冷たくて、新鮮。日本じゃ、こういうのは口にできないなぁ」
 彼女は子猫のように目を細めた。
 栄治はおそるおそる口を近づけ、やっと一口、それもほんの少し口に含んだ。しかし、次の瞬間彼は感動にあふれた声を発した。
 「うめえ! 俺は何年もフランスと日本の間を行き来していたけど、今までこういうものを食ったり飲んだりしなかったのは、すげえもったいなかったかもしれねぇ」
 そして、残りのジュースを一口で飲み干した。亜矢子が栄治の方を見た。数秒の間を置いて彼女はニッコリ微笑んだ。栄治も幸せそうに笑った。
 二人はとぎれることなく話に花を咲かせて、大通りを歩き続けた。そのうちにホテルが見えてきた。
 「亜矢ちゃん、亜矢ちゃんのおかげで今日は俺、フランスに何度来たにもかかわらず気づかなかった新しい魅力を発見できてうれしかった。俺さ、亜矢ちゃんともう少しこうして歩いていたいな」
 「でも、秀樹が待っているから、ホテルにすぐに戻らなくちゃ。また明日会いましょうね」
 しばらく二人は夜道に響く自分たちの足音を聞きながら黙っていた。
 「明日はイタリアに行くんだよね。行程表、間違いないだろうね? ロンドンからパリに来る時は本当に大変だったんだから」
 「今度は間違いないわ。」
 ホテルの前で亜矢子が立ち止まると、栄治も立ち止まり、真っ直ぐに亜矢子の顔を見詰めた。栄治のごつくて大きな顔が亜矢子に近づく。亜矢子は目をつぶった。栄治の意外にやわらかい唇が亜矢子の唇にかぶさる。栄治の香水の優雅な香りが漂う。彼女はすぐに離れて玄関に走っていく。
 「じゃあね、北川さん」
 「おやすみ、亜矢ちゃん」
 彼女の後ろ姿が自動ドアの向こうに吸い込まれるのを確認すると、栄治は寂しげにたたずんでいたが、やがてタクシーを停めると、その場を立ち去った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日