シナリオ

29
「あなたが警察で話す。警察官は言う。『公開実験』をしていたのはどこの誰ですか? きかれてもあなたは特徴しか答えられない。あなたの情報も少しは役に立つかもしれない。捜査の結果、トカゲの尻尾の先みたいな下っ端が捕まる。上層部がもしあなたのことを目障りだと思ったら、あなたの足元に地獄がぽっかり口を開けるわ。あなたの生き方、格好よくてとても好きだけど、何も関係がないのに自分から火の粉をかぶる真似はしない方がいいわね。今の所あなたのことを重要な人物だとは思っていないわ。私は個人的に興味を持っているけど……」
「俺が大学生の時のことだ。やくざの車を無理に追い越したら、信号待ちの時に怒ったやくざが下りてきて、俺の車のドアを開けようとした。開いたドアからやくざの手が入ってきた時は、もうだめかと思った。俺はとっさにその手を払って、ドアを閉め、鍵をかけた。怒ったやくざはドアを何度も蹴った後、自分の車に戻っていった。もちろん俺は警察には行かなかったさ。車の傷はたいしたことなかったし、警察だってそのぐらいのことを捜査している余力はないだろうからな。それに証拠だって何もないに等しいし……」
「今回見たことは、それよりはずっと重大なことじゃない?」
「俺だって自分自身が危険な状況からできるだけ遠ざかって生き延びることを最優先に考えているって言いたかったのさ」
「だったら見たことに疑問を持っても、初めから何もきかないに限るわ。まったく危なっかしい人ね。そこにたまらなく惹かれてしまうんだけど。もうこれ以上は首を突っ込まないほうがいいわ」
「同僚の身が心配でもか?」
麻衣は意表を突かれたような顔をした。
「どういうこと?」
「亜矢子が君の兄貴に呼び出されて出掛けていった。君の兄貴に対して空港で会ったときから危険な印象を持っていたんだが、今の話を聞いてますます不安になった。麻衣さん、知っていたら亜矢子が今どこにいるか教えてくれないか?」
「あなたは亜矢子さんと付き合っているの?」
「そういうわけじゃない」
「それなら別に彼女がどこで誰と何していようが、構わないんじゃない?」
「亜矢子が北川の正体を知らないで会っているのが、同じ職場で働く者として心配なんだ。彼女も北川の正体を知ったら多分考えると思うのさ。だから彼女に教えて自分の交際相手としてふさわしい人物なのかどうかを考えてもらおうと思っているんだ。俺の考えは変か?」
「一見フェアーな考えだとは思うわ。でもあなたの言葉には私の気持ちを動かすだけの強さが欠けているわ。だから私は教えない」
秀樹はがばっとテーブルに手をついて頭を下げた。
「頼む。教えてくれ」
麻衣は膝を組みなおして、髪をかきあげた。
「あなたが彼女のことを好きなら教えるけど、そうじゃなければ教える義務はないと思うわ。私に関しても、兄に関しても、亜矢子さんに関しても、何も義務はないんじゃないの? 亜矢子さんも大人よ。彼女が皇太子様と付き合おうが詐欺師と付き合おうが、それは彼女の自由。もし彼女が兄のような人と関わりたくないと思えば、彼女自身で判断するでしょう。あなたが彼女の行動に口を出す権利はないわ!」
「好きなんだ。……好きなんだ。やっぱり俺、亜矢子のことが好きになっていたんだ」
秀樹は下を向いて一人で納得して、同じことを何度も繰り返してつぶやいた。
「なによ。あなた、さっきと言っていることが全然違っているわよ」
秀樹は顔を上げて、麻衣の顔を真直ぐに見つめ、きっぱりとした調子で自分の気持ちを説明した。
「一年前の春先に、恋人が交通事故で死んだんだ。結婚する予定だった。死んだ今でもすごく好きで、一生彼女を思って生きようと思っていた。だから亜矢子と一緒に仕事をするようになって、だんだん気心が知れるようになってきても、あえて異性として意識しないようにしていた」
「じゃあ、なんで二人で海外旅行なんかしているの?」
秀樹は、この旅行の経緯について一通り説明した。麻衣は、「そういうこともあるかねぇ」と、一定の理解は示したようだった。秀樹はさらに自分の思いを説明した。
「でも、知らず知らずのうちに好きになっていったんだな。こういう状況になってみるとよくわかるよ。北川から電話が来て、彼女が出掛けたときは、どうにでも好きにしろというやけな気持ちになっていた。でも、君から君たちのことを話してもらったら、北川の所へ行った亜矢子が心配で、いてもたってもいられなくなった。亜矢子が俺のことをどう思っているかは、はっきりわからない。でも、好きな人を守ってあげたいという気持ちは、彼女が今どこに入るのかを教えてもらう理由にはならないかな?」
麻衣はいつの間にかとても心地よげに秀樹の告白を聞き入っていた。
「素敵ね。私もそういうふうに愛してもらいたいわ」
「え?」
「あなたが私のことを好きになってくれたらいいって言ったのよ」
「なんだって?」
「冗談よ。ついてきて。手遅れにならないことを祈っているわ。もっとも亜矢子さんも半分はこの世界に足が入りかけているけどね」秀樹に背中を向けて、彼女は、舌をペロッと出した。もちろん、はったりだった。でも、兄の気持ち次第では、もしかしたら、この言葉どおりになることもあり得なくはない。まあ、そんなことはどうでもいい。なんだか秀樹の一途さを見ていたら、無性にからかいたくなってしまったのだ。
秀樹はすばやい身のこなしで立ち上がり、もう後ろを見せてベランダから滑り降りた麻衣の後を追い掛けた。
秀樹は歩きながら麻衣の横で、食い下がった。
「おい、どういうことだよ。亜矢子が足を半分入れているっていうのは?」
麻衣は足を止めて、秀樹に向き直った。もう、亜矢子、亜矢子って、うるさい人ね。よし、ちょっといじめてやれ。麻衣のいたずら心は、また燃えてきた。
「それを知りたい? それとも今いる場所に連れて行ってほしい? あなたにこれ以上ないくらい優しく振舞って来たのよ。あまり甘えるようなら、私も態度を改めるわ」
もう麻衣は、単なる粋であでやかな女ではなくなっていた。秀樹には、そう見えた。表面上は小奇麗な顔でも、その表情の底の方には、修羅場をかいくぐってきた者のみが持つ凄みのようなものがあった。秀樹の心はぴしゃりと叩かれてすっかり萎縮したようになってしまった。
麻衣はまた無言で歩き始めた。
秀樹も黙ってその後を早足で追い掛けた。ほかのテーブルや通りでおしゃべりしていたイタリア人たちが、一斉に彼らに目を向けたが、二人はそんなことには目もくれず、早足で人並みをかき分けていった。
「俺が大学生の時のことだ。やくざの車を無理に追い越したら、信号待ちの時に怒ったやくざが下りてきて、俺の車のドアを開けようとした。開いたドアからやくざの手が入ってきた時は、もうだめかと思った。俺はとっさにその手を払って、ドアを閉め、鍵をかけた。怒ったやくざはドアを何度も蹴った後、自分の車に戻っていった。もちろん俺は警察には行かなかったさ。車の傷はたいしたことなかったし、警察だってそのぐらいのことを捜査している余力はないだろうからな。それに証拠だって何もないに等しいし……」
「今回見たことは、それよりはずっと重大なことじゃない?」
「俺だって自分自身が危険な状況からできるだけ遠ざかって生き延びることを最優先に考えているって言いたかったのさ」
「だったら見たことに疑問を持っても、初めから何もきかないに限るわ。まったく危なっかしい人ね。そこにたまらなく惹かれてしまうんだけど。もうこれ以上は首を突っ込まないほうがいいわ」
「同僚の身が心配でもか?」
麻衣は意表を突かれたような顔をした。
「どういうこと?」
「亜矢子が君の兄貴に呼び出されて出掛けていった。君の兄貴に対して空港で会ったときから危険な印象を持っていたんだが、今の話を聞いてますます不安になった。麻衣さん、知っていたら亜矢子が今どこにいるか教えてくれないか?」
「あなたは亜矢子さんと付き合っているの?」
「そういうわけじゃない」
「それなら別に彼女がどこで誰と何していようが、構わないんじゃない?」
「亜矢子が北川の正体を知らないで会っているのが、同じ職場で働く者として心配なんだ。彼女も北川の正体を知ったら多分考えると思うのさ。だから彼女に教えて自分の交際相手としてふさわしい人物なのかどうかを考えてもらおうと思っているんだ。俺の考えは変か?」
「一見フェアーな考えだとは思うわ。でもあなたの言葉には私の気持ちを動かすだけの強さが欠けているわ。だから私は教えない」
秀樹はがばっとテーブルに手をついて頭を下げた。
「頼む。教えてくれ」
麻衣は膝を組みなおして、髪をかきあげた。
「あなたが彼女のことを好きなら教えるけど、そうじゃなければ教える義務はないと思うわ。私に関しても、兄に関しても、亜矢子さんに関しても、何も義務はないんじゃないの? 亜矢子さんも大人よ。彼女が皇太子様と付き合おうが詐欺師と付き合おうが、それは彼女の自由。もし彼女が兄のような人と関わりたくないと思えば、彼女自身で判断するでしょう。あなたが彼女の行動に口を出す権利はないわ!」
「好きなんだ。……好きなんだ。やっぱり俺、亜矢子のことが好きになっていたんだ」
秀樹は下を向いて一人で納得して、同じことを何度も繰り返してつぶやいた。
「なによ。あなた、さっきと言っていることが全然違っているわよ」
秀樹は顔を上げて、麻衣の顔を真直ぐに見つめ、きっぱりとした調子で自分の気持ちを説明した。
「一年前の春先に、恋人が交通事故で死んだんだ。結婚する予定だった。死んだ今でもすごく好きで、一生彼女を思って生きようと思っていた。だから亜矢子と一緒に仕事をするようになって、だんだん気心が知れるようになってきても、あえて異性として意識しないようにしていた」
「じゃあ、なんで二人で海外旅行なんかしているの?」
秀樹は、この旅行の経緯について一通り説明した。麻衣は、「そういうこともあるかねぇ」と、一定の理解は示したようだった。秀樹はさらに自分の思いを説明した。
「でも、知らず知らずのうちに好きになっていったんだな。こういう状況になってみるとよくわかるよ。北川から電話が来て、彼女が出掛けたときは、どうにでも好きにしろというやけな気持ちになっていた。でも、君から君たちのことを話してもらったら、北川の所へ行った亜矢子が心配で、いてもたってもいられなくなった。亜矢子が俺のことをどう思っているかは、はっきりわからない。でも、好きな人を守ってあげたいという気持ちは、彼女が今どこに入るのかを教えてもらう理由にはならないかな?」
麻衣はいつの間にかとても心地よげに秀樹の告白を聞き入っていた。
「素敵ね。私もそういうふうに愛してもらいたいわ」
「え?」
「あなたが私のことを好きになってくれたらいいって言ったのよ」
「なんだって?」
「冗談よ。ついてきて。手遅れにならないことを祈っているわ。もっとも亜矢子さんも半分はこの世界に足が入りかけているけどね」秀樹に背中を向けて、彼女は、舌をペロッと出した。もちろん、はったりだった。でも、兄の気持ち次第では、もしかしたら、この言葉どおりになることもあり得なくはない。まあ、そんなことはどうでもいい。なんだか秀樹の一途さを見ていたら、無性にからかいたくなってしまったのだ。
秀樹はすばやい身のこなしで立ち上がり、もう後ろを見せてベランダから滑り降りた麻衣の後を追い掛けた。
秀樹は歩きながら麻衣の横で、食い下がった。
「おい、どういうことだよ。亜矢子が足を半分入れているっていうのは?」
麻衣は足を止めて、秀樹に向き直った。もう、亜矢子、亜矢子って、うるさい人ね。よし、ちょっといじめてやれ。麻衣のいたずら心は、また燃えてきた。
「それを知りたい? それとも今いる場所に連れて行ってほしい? あなたにこれ以上ないくらい優しく振舞って来たのよ。あまり甘えるようなら、私も態度を改めるわ」
もう麻衣は、単なる粋であでやかな女ではなくなっていた。秀樹には、そう見えた。表面上は小奇麗な顔でも、その表情の底の方には、修羅場をかいくぐってきた者のみが持つ凄みのようなものがあった。秀樹の心はぴしゃりと叩かれてすっかり萎縮したようになってしまった。
麻衣はまた無言で歩き始めた。
秀樹も黙ってその後を早足で追い掛けた。ほかのテーブルや通りでおしゃべりしていたイタリア人たちが、一斉に彼らに目を向けたが、二人はそんなことには目もくれず、早足で人並みをかき分けていった。