シナリオ
32
結婚計画
部屋に戻ると亜矢子は、「ジェラッテリアで寝ながら飲み物をこぼしちゃったみたい。気持ち悪いからシャワー浴びてくるよ」と言って、バスルームに入っていった。残された秀樹は、ベッドに腰掛けて、携帯電話をかけた。
「こちら秀樹。歩夢さん? ちょっと教えてもらいたいことがあるんだけど、いいかい? ……。北川について詳しく説明してくれないか? ……。科学者じゃないことはもう知っているんだよ。それから、君はあいつとどういう関係なんだい? ……。いや、実は今日、こういうことがあってさ」
彼は歩夢に一通りのことを説明した。
電話の向こうでは歩夢が不明瞭な説明を長々とはじめだし、秀樹はだんだんいらいらしてきた。しかし、いくつかの点は確認できた。北川が科学者の振りをして、何の役にも立たない商品を高額で売りさばく詐欺師であることは既にわかっていたが、それを歩夢の口からも確かめることができた。もっとも秀樹が麻衣の口から聞いたという事実を突きつけたから、歩夢が認めざるを得なかったというのが実際の所だったが。その他の点は非常に曖昧模糊としたことしか歩夢は言わなかった。しかし少し強い口調で迫ると、対岸の柳の木の下でぼんやり霞んで見える幽霊みたいなことは話して聞かせた。どうやら北川は詐欺以外にもいくつかの「事業」を、世界を股にかけて展開しているらしい。歩夢も何か弱みを握られて協力させられているのだろう。秀樹は一番気になっていることを最後にたずねた。
「亜矢子は北川の組織と何か関係があるのか?」
「亜矢子、さんが? そんな、どうしてあなたはそんなふうに思うのですか?」
歩夢の反応はまったく思いがけないことをきかれた人のそれであった。秀樹は歩夢の答えから何かがわかるとは予想していなかったが、まったくその通りになったと思った。しかし彼は、歩夢が「亜矢子」と言いそうになって、慌てて「さん」を付けたことには気づかなかった。亜矢子がバスルームから出てくる音がしたので、彼は電話を切った。
「誰と電話をしていたの?」
濡れた髪のまま亜矢子はバスルームから出てきて、秀樹に話しかけた。ジャージのハーフパンツと、肩から袖にかけて三本のラインが入ったジャージの上着を身につけている。彼女はもう何事もないような顔をしている。秀樹は、こわばった表情で話し始めた。
「北川のことをきいたんだよ。あいつはいったいどんな奴だか知っているか?」
亜矢子はバスタオルで髪を拭きながら言った。石鹸のいい匂いが秀樹の鼻をくすぐる。
「科学者でしょ? パリであれだけの公開実験をしたんだから、本当にすごい人よ」
「じゃあ、きくけど、おまえはなんであのジェラッテリアで眠り込んでしまったと思う?」
「店員が間違って強いお酒を持ってきたんでしょ? 旅の疲れもあったし……」
「睡眠薬を飲ませたんだよ、北川が」
「うそ!」
亜矢子の顔は、みるみるこわばっていった。
「うそじゃない。さっき、北川本人から聞いたことだ」
亜矢子は目を見開いて首を横に何度も振った。
「北川さんがなんでそんなことをしたの?」
秀樹は黙って首を横に数回振った。秀樹は一呼吸置いて、公開実験について説明した。
「『ハッチク』の中には普通の電池が入っているんだ。それから、時計には、電池を入れる場所が二箇所ある。一箇所はダミーだ。公開実験のとき、北川は普通の電池を、初めはダミーの方へ入れた。針が動くはずはない。二度目は本来の電池ケースに入れたので、針が動きはじめたというわけさ。『ハッチク』用の充電池が、ただの電池だと気づかずにまとめ買いした客も、かなり月日が経たないと不審に思わない。服に付いている端子を接続する装置も偽物だ。電気の溜まり具合を示すインジケーターは確かに動くけど、あれを家庭の電源に差し込んでも電気は供給されない。家庭のコンセントにつないで使うから、電力会社から来た電気なのか家庭で発電した電気なのか見分けられないだろ。買った人たちがおかしいなって気づいた頃にはもうヨーロッパにはいないって寸法なんだろうな」
「秀樹が勝手に想像しているんじゃなくて、本当のことなの?」
「はっきり確かめたんだから間違いないよ」
「歩夢さんにきいただけなんでしょう?」
「麻衣さんにもきいた。そのうちに新聞に出るだろう」
亜矢子はやっと信じたようだった。ショックのために頭がしばらく混乱して何も言うことができなかった。
秀樹は立ち上がってコーヒーを二人分作った。皿とカップを亜矢子に渡した。
亜矢子はコーヒーを一口すすって言った。
「あのまま眠り込んだままあそこにいたら、私は今頃どうなっていたんだろう? 秀樹が私を探してくれなかったら、どうなっちゃったんだろう?」
亜矢子は大きな音を立ててカップをテーブルに置いた。コーヒーが少し皿の上にこぼれた。亜矢子の目から涙がこぼれていた。
「ねぇ、あの人たち何者?」
秀樹はコーヒーカップを持ったまま答えた。
「少なくとも詐欺師、マフィアだといっても見当違いじゃないだろうな」
「歩夢、歩夢さんもその仲間なの?」
「歩夢さん本人は、弱みを握られて手伝わされているようなことを言っていた」
秀樹は、亜矢子が「歩夢」と呼び捨てにして、その後言い直したことを気には留めなかった。
「私たち知らないうちにそんな危険な組織の事情に立ち入ってしまって、大丈夫なのかしら?」
亜矢子はもうぼろぼろに涙を流していた。
「あいつらはなんでもないことだと思っているよ。俺たちが警察で話をして、少しは捜査の役に立ったとしても捕まるのは一部さ。組織を消滅させることなんかできないだろう。連中が俺たちを邪魔だと思うことがあるとすれば、組織の危機につながるような重要なことを知ったときさ。別に何がとられたわけでもないし、いやがらせを受けているわけでもないんだから、このまま旅行を続けて日本に帰ればいいのさ」
「わかったわ」
亜矢子はうつむいて答えた。その表情が秀樹には気になった。秀樹は思い切って口に出してみた。