シナリオ
33
「亜矢子、何か俺に隠していることはないか?」
亜矢子は不思議そうな顔で秀樹を見つめた。
「どういうこと? 私が何を隠しているって言うの?」
「いや、なんでもない。いろいろと込み入ったことが一遍にあったんで疑心暗鬼になったみたいだ」
「なんだかいやだわ。私の頭の中は収拾が付かないわ。こんな状態のときにさらに変なことを言わないでよね。それよりさっき麻衣さんが言ってたことは本当なの?」
ジェラッテリアで亜矢子たちが栄治たちと別れる時に、麻衣は秀樹の本心を明かした。秀樹はそのことを言っているのだなとすぐわかった。もう亜矢子への気持ちは固まったように思えた。秀樹はその思いを真正面から亜矢子に示すことにした。
「昼食会場を出てすぐに麻衣さんに呼び止められた。麻衣さんの口から、やつらが不法行為をして世間を渡っている人間だと聞きだした時、初めて空港で栄治を見たときのいやな予感が的中したと思った。真っ先に亜矢子の身が心配になった。俺は同僚として心配だから亜矢子のいる場所を教えてほしいと麻衣さんに頼んだ。その時麻衣さんに、亜矢子のことを好きなのかとたずねられた。同僚として心配しているだけなら教える義務はないと言われた。大人が誰と会ってどうなっても、本人が判断したことだから自分で責任を取るべきだろうという理屈だ。でも、もし好きなら話は違うから、そこのところをはっきりしてくれと迫られた。俺は初めて君のことがどのくらい大切な人かということを真正面から決定しなければならない瞬間を迎えた。しかしそうなってみると何も悩むことはなかった。答えはすぐ出た。イエスだ。それから自分自身に問いかけてみた。おまえは彼女を救い出すためにそう答えようと努めているのじゃないかって。でもそうじゃないことがはっきりわかった。亜矢子、俺はおまえのことが好きだ。本当に好きだ」
秀樹はそのまま亜矢子の目をじっと見つめていた。
亜矢子も秀樹を見つめていた。
亜矢子の目からまた涙があふれてきた。
秀樹は亜矢子を抱き寄せキスをした。亜矢子は「うれしい、うれしい」とささやき続けた。
秀樹はキスをしたまま亜矢子をベッドに運んだ。上掛けの上に崩れ伏すと、亜矢子は手や足や腰をくねらせ、力強く脈動していた。
二人はまた、黙って見詰め合った。秀樹はうれしかった。亜矢子は自分のことが好きなのだということがはっきりしたのである。彼の胸のうちから、えも知れぬ感激が湧き起こった。自分が今まで抑えてきた感情が噴出したような気がした。いや、それでも抑えておかなければならないのではないか、と言っている自分自身もいたが、しかし、もうそんな声には耳を貸せなくなっていた。亜矢子は安心しきった表情で秀樹を見つめていた。ジャージの腕にある三本線が好ましいものに見えた。彼の手がジャージの裾にかかった。彼女はやはり何の抵抗もしなかった。その時、ベッキーが吠えだした。
「ワン、ワン。ワン、ワン、ワン」
ベッキーは、腰掛の上に座って、二人の方をまっすぐに見て吠え続けた。
秀樹は放っておこうと思い、ジャージの裾を下着が見えるまでたくし上げた。彼は亜矢子の白い肌に釘付けになっていたので、ベッキーの鳴き声などどうでもよかった。亜矢子も彼の仕事に協力的な姿勢を示していて、愛犬の声さえ耳に入らない様子だった。しかし、ベッキーは大きな声で吠え立てることを決してやめなかった。
「ワンワンワンワンワン、ワン!」
そして最後に勝利したのは、恋人ではなく一匹の愛玩動物であった。
亜矢子は顔をしかめて、秀樹の手からするりと抜け出し、愛犬と向かい合った。
「もう、どうしたのよ、ベッキー! おかしいじゃない。いつもはそんなに聞き分けの悪い子じゃないのに、今日に限って何でこうなのかしら? どうしたの、おなかすいたの? さっき、ごはんをあげたのにねぇ」
亜矢子はベッキーを慰めるのにだいぶてこずっていた。
秀樹は起き上がって部屋の中を見回した。広い部屋だった。
「ローマの夜景を見下ろす特別スウィートルームでの夢のような一夜の思い出作り」
添乗員がそんなことを言っていたのを思い出した。確かにすばらしい部屋だった。キングサイズのベッド。豪華な食器棚とダイニングルーム。コーヒーや紅茶、酒。簡単なつまみを作って、ゆったりと食べるスペース。奥にはビデオシアターがある。大きな壁一面にムービーが映し出されるシステムだ。
彼は紅茶を作ってその部屋に行こうとしたが、窓から見えるローマの夜景に目が釘づけになった。なるほど確かに夢のようなすばらしい情景である。彼は今回の旅行では何かを見てじっくりと楽しむということがあまりなかったことに気付いた。どこにいきたいということもなかったし、同行の亜矢子と妙な取り決めをしていたし、二人の微妙な関係の隙間をついてくるように、栄治がちょっかいを出してきたし、そういう状況の中で苛立ちばかりが募っていた。今、亜矢子と親密になって、気分が高揚してきて、やっとこの旅行を楽しむことができるようになっていた。窓際には、まるで社長のデスクのように、古風なデザインの大きな机が広い領域を占有していた。紅茶を一口すすって机の上を見ると、到着したときに無造作に置いた書類に目が留まった。
第一条、二人の関係
旅行の参加条件である男一名、女一名、合計二名の定員を満たすためだけの関係に過ぎず、旅行中も旅行前後も変わることはない。
第二条、居室での過ごし方
秀樹は居室の利用を必要最小限にとどめ、就寝時はソファ等で仮眠する程度とする。
第三条、飲酒
飲酒が原因で不測の事態も起きかねないので、両者厳に慎むこと。
第四条、感情
仮に旅行中どのような感情が起こったとしても、それはまったく一時的なものに過ぎないので、衝動的な行動に移らないよう理性を働かせること。
透明なカードケースに収まって光を反射させ、きらりと警告のサインを送っているかのようだった。朱肉で押された秀樹と亜矢子の印影も、作成当初は形式的なものであるだけであったが、今こうして見つめていると何らかの効力を帯びているように感じられるのが、彼には不思議に思えた。
亜矢子は不思議そうな顔で秀樹を見つめた。
「どういうこと? 私が何を隠しているって言うの?」
「いや、なんでもない。いろいろと込み入ったことが一遍にあったんで疑心暗鬼になったみたいだ」
「なんだかいやだわ。私の頭の中は収拾が付かないわ。こんな状態のときにさらに変なことを言わないでよね。それよりさっき麻衣さんが言ってたことは本当なの?」
ジェラッテリアで亜矢子たちが栄治たちと別れる時に、麻衣は秀樹の本心を明かした。秀樹はそのことを言っているのだなとすぐわかった。もう亜矢子への気持ちは固まったように思えた。秀樹はその思いを真正面から亜矢子に示すことにした。
「昼食会場を出てすぐに麻衣さんに呼び止められた。麻衣さんの口から、やつらが不法行為をして世間を渡っている人間だと聞きだした時、初めて空港で栄治を見たときのいやな予感が的中したと思った。真っ先に亜矢子の身が心配になった。俺は同僚として心配だから亜矢子のいる場所を教えてほしいと麻衣さんに頼んだ。その時麻衣さんに、亜矢子のことを好きなのかとたずねられた。同僚として心配しているだけなら教える義務はないと言われた。大人が誰と会ってどうなっても、本人が判断したことだから自分で責任を取るべきだろうという理屈だ。でも、もし好きなら話は違うから、そこのところをはっきりしてくれと迫られた。俺は初めて君のことがどのくらい大切な人かということを真正面から決定しなければならない瞬間を迎えた。しかしそうなってみると何も悩むことはなかった。答えはすぐ出た。イエスだ。それから自分自身に問いかけてみた。おまえは彼女を救い出すためにそう答えようと努めているのじゃないかって。でもそうじゃないことがはっきりわかった。亜矢子、俺はおまえのことが好きだ。本当に好きだ」
秀樹はそのまま亜矢子の目をじっと見つめていた。
亜矢子も秀樹を見つめていた。
亜矢子の目からまた涙があふれてきた。
秀樹は亜矢子を抱き寄せキスをした。亜矢子は「うれしい、うれしい」とささやき続けた。
秀樹はキスをしたまま亜矢子をベッドに運んだ。上掛けの上に崩れ伏すと、亜矢子は手や足や腰をくねらせ、力強く脈動していた。
二人はまた、黙って見詰め合った。秀樹はうれしかった。亜矢子は自分のことが好きなのだということがはっきりしたのである。彼の胸のうちから、えも知れぬ感激が湧き起こった。自分が今まで抑えてきた感情が噴出したような気がした。いや、それでも抑えておかなければならないのではないか、と言っている自分自身もいたが、しかし、もうそんな声には耳を貸せなくなっていた。亜矢子は安心しきった表情で秀樹を見つめていた。ジャージの腕にある三本線が好ましいものに見えた。彼の手がジャージの裾にかかった。彼女はやはり何の抵抗もしなかった。その時、ベッキーが吠えだした。
「ワン、ワン。ワン、ワン、ワン」
ベッキーは、腰掛の上に座って、二人の方をまっすぐに見て吠え続けた。
秀樹は放っておこうと思い、ジャージの裾を下着が見えるまでたくし上げた。彼は亜矢子の白い肌に釘付けになっていたので、ベッキーの鳴き声などどうでもよかった。亜矢子も彼の仕事に協力的な姿勢を示していて、愛犬の声さえ耳に入らない様子だった。しかし、ベッキーは大きな声で吠え立てることを決してやめなかった。
「ワンワンワンワンワン、ワン!」
そして最後に勝利したのは、恋人ではなく一匹の愛玩動物であった。
亜矢子は顔をしかめて、秀樹の手からするりと抜け出し、愛犬と向かい合った。
「もう、どうしたのよ、ベッキー! おかしいじゃない。いつもはそんなに聞き分けの悪い子じゃないのに、今日に限って何でこうなのかしら? どうしたの、おなかすいたの? さっき、ごはんをあげたのにねぇ」
亜矢子はベッキーを慰めるのにだいぶてこずっていた。
秀樹は起き上がって部屋の中を見回した。広い部屋だった。
「ローマの夜景を見下ろす特別スウィートルームでの夢のような一夜の思い出作り」
添乗員がそんなことを言っていたのを思い出した。確かにすばらしい部屋だった。キングサイズのベッド。豪華な食器棚とダイニングルーム。コーヒーや紅茶、酒。簡単なつまみを作って、ゆったりと食べるスペース。奥にはビデオシアターがある。大きな壁一面にムービーが映し出されるシステムだ。
彼は紅茶を作ってその部屋に行こうとしたが、窓から見えるローマの夜景に目が釘づけになった。なるほど確かに夢のようなすばらしい情景である。彼は今回の旅行では何かを見てじっくりと楽しむということがあまりなかったことに気付いた。どこにいきたいということもなかったし、同行の亜矢子と妙な取り決めをしていたし、二人の微妙な関係の隙間をついてくるように、栄治がちょっかいを出してきたし、そういう状況の中で苛立ちばかりが募っていた。今、亜矢子と親密になって、気分が高揚してきて、やっとこの旅行を楽しむことができるようになっていた。窓際には、まるで社長のデスクのように、古風なデザインの大きな机が広い領域を占有していた。紅茶を一口すすって机の上を見ると、到着したときに無造作に置いた書類に目が留まった。
第一条、二人の関係
旅行の参加条件である男一名、女一名、合計二名の定員を満たすためだけの関係に過ぎず、旅行中も旅行前後も変わることはない。
第二条、居室での過ごし方
秀樹は居室の利用を必要最小限にとどめ、就寝時はソファ等で仮眠する程度とする。
第三条、飲酒
飲酒が原因で不測の事態も起きかねないので、両者厳に慎むこと。
第四条、感情
仮に旅行中どのような感情が起こったとしても、それはまったく一時的なものに過ぎないので、衝動的な行動に移らないよう理性を働かせること。
透明なカードケースに収まって光を反射させ、きらりと警告のサインを送っているかのようだった。朱肉で押された秀樹と亜矢子の印影も、作成当初は形式的なものであるだけであったが、今こうして見つめていると何らかの効力を帯びているように感じられるのが、彼には不思議に思えた。