シナリオ

34
秀樹は、「今更こんなもの」とつぶやいて中身を抜いてゴミ箱に捨ててしまおうとしたが、手にしたまま目を離すことができなかった。彼は知らず知らずに読み上げていた。
「仮に旅行中どのような感情が起こったとしても、それはまったく一時的なものに過ぎないので、衝動的な行動に移らないよう理性を働かせること」
その時なぜだか、不意に死んだ恋人の面影が頭に浮かんできた。人間の頭には、実際まったくその時の脈絡とは関係ないものが浮かんでくるものだから、彼は恋人の顔が浮かんできたこと自体はなんとも思わなかった。しかし、一度思い浮かべた映像は頭にこびりついて離れなかった。飲酒運転のトラックが対向車線をはみ出して彼女と彼女の母親の乗っている車に正面衝突した。即死だった。病院に駆けつけて、彼女の顔を見た。美しい彼女の顔は変わり果てていた。
「どうしたの?」
秀樹は不意打ちを食らった気がして思わず体をびくっと震わせた。
「あっ、それはもう捨てちゃえば?」
亜矢子は秀樹がまじまじと見つめている書類に目を留めた。
「俺もそうしようと思ったんだけど、捨てられなかったんだ」
「どうして? だってもう必要ない。……でしょ?」
亜矢子の輝くような美しい顔を見ても、秀樹の気持ちは先程ベッドの上に横たわったときの状態に戻りそうもなかった。
「ベッキーはもう落ち着いたのか?」
「うん、大丈夫みたい。遠い所に連れてこられて、毎日のように寝る場所も変わるから、気が立っていたのかしら? 今までこんなことはなかったのに、変ねぇ」
「動物は人間とは感受性が違うんだろうな」
亜矢子は重大なことの報告を忘れていた人のように、大きな目を見開き、興奮してしゃべりだした。
「ねぇ、秀樹、さっきね、突然私の頭の中に悲しそうな女の人の顔が浮かんできたの。血まみれでとても苦しそうだった。じっとこっちを悲しそうな目で見つめているのよ。何かの映画で観たシーンが突然思い浮かんできたのかもしれないんだけど、秀樹が頭の中でイメージしたことが私の頭に転送されてきたのかなって思ってもみたの。秀樹、そんな女の人、思い浮かべなかった? ……そんなわけないか」
秀樹の全身に鳥肌が立った。彼は一瞬のうちにすべてを理解した。そして心の中で叫んだ。
「彼女だ。彼女が来たんだ。彼女を感じてベッキーが吠えた。ベッキーの様子を見るために亜矢子が離れた。時間つぶしに俺が部屋を歩き回って、規定集を見つけた。そして欲情に水をさされた。科学的根拠は何もない。しかし、体はそのことを知っている」
秀樹の背筋に冷たいものが走った。悪寒がして冷や汗が流れた。めまいがして立っていられなくなり、彼は椅子の背に手をついたままその場にしゃがみこんでしまった。
「ちょっと、秀樹、大丈夫? すごい熱じゃない? ベッドまで歩ける?」
秀樹はこういう時の、女の柔らかな声は本当に身にしみてありがたいものだと思った。額にぴたっと吸い付いた冷たい女性の小さな手のひらの感触は、どんなものにも勝る心地よいものだった。
それからあれやこれやと亜矢子が秀樹の世話を焼いた後、ベッドサイドに座る亜矢子の瑞々しい黒い瞳を秀樹が見つめた時には、彼の心持はすっかり落ち着いていた。
「亜矢子」
彼は静かに言った。
「何?」
亜矢子の声は、落ち着いた心境で聞いてみると、思わず抱き寄せて、もう一度衝動に身を任せてみたいと思わせる音色と響きを持っていた。
「俺、亜矢子のことが好きになったんだ」
秀樹はそのことを自分自身でもう一度味わうように言った。
亜矢子はその言葉を心から喜んでいた。
「私もよ」
「でも君には恋人がいるんだろ?」
亜矢子の顔はたちまち曇った。
「そんなことはないわ。私も秀樹のことが好きよ」
亜矢子の偽らざる気持ちであることは間違いなかった。しかし急に声に張りがなくなってしまったのはどうしたわけだったのだろうか。
秀樹は少しの間、頭の中を整理していた。亜矢子が恋人のいないことをはっきり断定しないこと。麻衣が、「半分裏の世界へ足をつっこんでいる」と言ったこと。それでも亜矢子がとびきりの笑顔で、自分に好意を向けてくれていると言ってくれたこと。それから、秀樹自身がまだ、死んだ恋人への思いを完全には断ち切れていないこと。
彼は渾身の力を込めて自分自身に言い聞かせた。
「じっくり時間を掛けることが大切だ。焦るなよ、俺」
秀樹は半身を起こして、亜矢子の手を握った。彼は言い終わるまで一秒も亜矢子の目から自分の目を離さなかった。亜矢子もそうした。
「俺に一年間時間をくれないか? 俺自身の気持ちは堅くて確かなものだけど、二人のことを、人はきっと衝動的に結ばれたと思うだろう。そうに思われるのがいやだからというわけではないけど、君への気持ちを確かにするために一年間かけてみたいんだ。もう一つは君の気持ちの整理のためさ。一年経って二人の気持ちが今と同じままだったら、来年の今月今夜にまたこのホテルのこの部屋に来よう」
彼は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の名セリフをもじって言ったが、ふざけた気持ちは微塵もなかった。
「それって、今回のシナリオの続きみたい」
「そう、シナリオだ。シナリオどおりに俺たちは振舞おう。一年なんてあっという間だよ。そんな短い時間すら互いの気持ちを温められないようでは、長い人生をともに歩むことなんて到底できっこないよ。もう一度言うよ。亜矢子のことを心から愛している。一年後も同じだ。そのことを誓うよ。そしてその誓いを俺の名誉にかけて実現してみせる」
「秀樹。私もあなたのことを愛しているわ。一年も長い間、待たなければならないなんて、気が遠くなりそうだけど、私、あなたの気が済むまで待つわ。たとえ、このことが私を敬遠するためにあなたが仕組んだペテンだとしても」
「何がペテンなものか。本当に今ここで……」
秀樹は亜矢子を抱き、キスしようとしたが、唇が接触する前に彼は立ち上がり、窓辺に向かった。そして、振り向きもせずに言った。
「誓って君を愛している。俺を信じてほしい。そして、来年、このホテルにハネムーン旅行で来よう」
「仮に旅行中どのような感情が起こったとしても、それはまったく一時的なものに過ぎないので、衝動的な行動に移らないよう理性を働かせること」
その時なぜだか、不意に死んだ恋人の面影が頭に浮かんできた。人間の頭には、実際まったくその時の脈絡とは関係ないものが浮かんでくるものだから、彼は恋人の顔が浮かんできたこと自体はなんとも思わなかった。しかし、一度思い浮かべた映像は頭にこびりついて離れなかった。飲酒運転のトラックが対向車線をはみ出して彼女と彼女の母親の乗っている車に正面衝突した。即死だった。病院に駆けつけて、彼女の顔を見た。美しい彼女の顔は変わり果てていた。
「どうしたの?」
秀樹は不意打ちを食らった気がして思わず体をびくっと震わせた。
「あっ、それはもう捨てちゃえば?」
亜矢子は秀樹がまじまじと見つめている書類に目を留めた。
「俺もそうしようと思ったんだけど、捨てられなかったんだ」
「どうして? だってもう必要ない。……でしょ?」
亜矢子の輝くような美しい顔を見ても、秀樹の気持ちは先程ベッドの上に横たわったときの状態に戻りそうもなかった。
「ベッキーはもう落ち着いたのか?」
「うん、大丈夫みたい。遠い所に連れてこられて、毎日のように寝る場所も変わるから、気が立っていたのかしら? 今までこんなことはなかったのに、変ねぇ」
「動物は人間とは感受性が違うんだろうな」
亜矢子は重大なことの報告を忘れていた人のように、大きな目を見開き、興奮してしゃべりだした。
「ねぇ、秀樹、さっきね、突然私の頭の中に悲しそうな女の人の顔が浮かんできたの。血まみれでとても苦しそうだった。じっとこっちを悲しそうな目で見つめているのよ。何かの映画で観たシーンが突然思い浮かんできたのかもしれないんだけど、秀樹が頭の中でイメージしたことが私の頭に転送されてきたのかなって思ってもみたの。秀樹、そんな女の人、思い浮かべなかった? ……そんなわけないか」
秀樹の全身に鳥肌が立った。彼は一瞬のうちにすべてを理解した。そして心の中で叫んだ。
「彼女だ。彼女が来たんだ。彼女を感じてベッキーが吠えた。ベッキーの様子を見るために亜矢子が離れた。時間つぶしに俺が部屋を歩き回って、規定集を見つけた。そして欲情に水をさされた。科学的根拠は何もない。しかし、体はそのことを知っている」
秀樹の背筋に冷たいものが走った。悪寒がして冷や汗が流れた。めまいがして立っていられなくなり、彼は椅子の背に手をついたままその場にしゃがみこんでしまった。
「ちょっと、秀樹、大丈夫? すごい熱じゃない? ベッドまで歩ける?」
秀樹はこういう時の、女の柔らかな声は本当に身にしみてありがたいものだと思った。額にぴたっと吸い付いた冷たい女性の小さな手のひらの感触は、どんなものにも勝る心地よいものだった。
それからあれやこれやと亜矢子が秀樹の世話を焼いた後、ベッドサイドに座る亜矢子の瑞々しい黒い瞳を秀樹が見つめた時には、彼の心持はすっかり落ち着いていた。
「亜矢子」
彼は静かに言った。
「何?」
亜矢子の声は、落ち着いた心境で聞いてみると、思わず抱き寄せて、もう一度衝動に身を任せてみたいと思わせる音色と響きを持っていた。
「俺、亜矢子のことが好きになったんだ」
秀樹はそのことを自分自身でもう一度味わうように言った。
亜矢子はその言葉を心から喜んでいた。
「私もよ」
「でも君には恋人がいるんだろ?」
亜矢子の顔はたちまち曇った。
「そんなことはないわ。私も秀樹のことが好きよ」
亜矢子の偽らざる気持ちであることは間違いなかった。しかし急に声に張りがなくなってしまったのはどうしたわけだったのだろうか。
秀樹は少しの間、頭の中を整理していた。亜矢子が恋人のいないことをはっきり断定しないこと。麻衣が、「半分裏の世界へ足をつっこんでいる」と言ったこと。それでも亜矢子がとびきりの笑顔で、自分に好意を向けてくれていると言ってくれたこと。それから、秀樹自身がまだ、死んだ恋人への思いを完全には断ち切れていないこと。
彼は渾身の力を込めて自分自身に言い聞かせた。
「じっくり時間を掛けることが大切だ。焦るなよ、俺」
秀樹は半身を起こして、亜矢子の手を握った。彼は言い終わるまで一秒も亜矢子の目から自分の目を離さなかった。亜矢子もそうした。
「俺に一年間時間をくれないか? 俺自身の気持ちは堅くて確かなものだけど、二人のことを、人はきっと衝動的に結ばれたと思うだろう。そうに思われるのがいやだからというわけではないけど、君への気持ちを確かにするために一年間かけてみたいんだ。もう一つは君の気持ちの整理のためさ。一年経って二人の気持ちが今と同じままだったら、来年の今月今夜にまたこのホテルのこの部屋に来よう」
彼は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の名セリフをもじって言ったが、ふざけた気持ちは微塵もなかった。
「それって、今回のシナリオの続きみたい」
「そう、シナリオだ。シナリオどおりに俺たちは振舞おう。一年なんてあっという間だよ。そんな短い時間すら互いの気持ちを温められないようでは、長い人生をともに歩むことなんて到底できっこないよ。もう一度言うよ。亜矢子のことを心から愛している。一年後も同じだ。そのことを誓うよ。そしてその誓いを俺の名誉にかけて実現してみせる」
「秀樹。私もあなたのことを愛しているわ。一年も長い間、待たなければならないなんて、気が遠くなりそうだけど、私、あなたの気が済むまで待つわ。たとえ、このことが私を敬遠するためにあなたが仕組んだペテンだとしても」
「何がペテンなものか。本当に今ここで……」
秀樹は亜矢子を抱き、キスしようとしたが、唇が接触する前に彼は立ち上がり、窓辺に向かった。そして、振り向きもせずに言った。
「誓って君を愛している。俺を信じてほしい。そして、来年、このホテルにハネムーン旅行で来よう」