シナリオ

飛行機
prev

35

歩夢訪問

 日差しがきつくなってきた。夏はすぐそこまでやって来ているはずなのだ。しかし、この日本ではそう簡単に、ことが運ばないのである。学校時間でいうところの夏休みが始まっても、なかなか梅雨が明けない年もある。だから、六月によい天気が続いたとしても騙されてはいけない。それにしても今年の六月はやたらと日差しがきつい。
 男はある地方の県庁所在地の郊外に停車した電車を降りて、ある場所を探し歩いていた。しかし、ここまでやって来ても、彼はまだ逡巡していた。彼は現在、ある二つの事柄によってひどく苦しんでいた。二つのことが絡まりあって、彼自身どうしたらいいかわからない。それで、その一つのことを解決するために旅先で知り合った男と交渉しようと決断し、アパートまでやってきたのである。彼のもう一つの苦しみは、多くの借金を抱えていたことであった。このままでは自己破産するか、死ぬしかない。
 ずいぶん長い間、エントランスの自動ドアの前で行ったり来たりしていると、後ろから親しげな調子で声をかけるものがあった。
 「あれ、歩夢さん。どうしたの?」
 歩夢はこれから会ってかなり突っ込んだ交渉をしようとしていた当の本人に後ろから不意を突かれる形となったので、情けないくらいにどぎまぎしてしまった。
 「や、やあ、秀樹さん。どうもお久しぶりです。お元気でしたか。いや、何でもないんですよ。ちょっとこの辺まで来たものですから、秀樹さんのお顔でも拝見しようと思いましてね……」
 「でも、よく場所が分かりましたね」
 「だって、写真を送るのに、住所を教えてもらったじゃないですか」
 数日前に送られてきた写真を見て、歩夢の腕前に感心したことを、彼は思い出した。
 「そういえば、そうでしたね。いや、それにしてもびっくりしましたよ。まあまあ、せっかくですからね、どうぞお入りください」
 秀樹は暗証番号を入力して自動ドアを開けると、自分の部屋の前まで歩夢を案内した。秀樹はドアを開けると、先に自分が入り、部屋を手早く片付けた。おそるおそる顔をのぞかせる歩夢に、ソファーを指でさし、自分も腰掛けた。
 「本当に、突然すみません」
 歩夢は恐縮しながらソファに腰を下ろし、部屋の中を見回した。
 秀樹はキッチンカウンターの奥にある冷蔵庫からガラス製のポットを出した。
 「麦茶ぐらいしかないんですけど、よろしかったら召し上がって下さい」
 壁にかかっている時計を眺めていた歩夢は、右手を横に振って断った。
 「いや、すぐ帰りますので、何もかまわないで下さい」
 そう言ってのけぞった拍子に安物のソファはひっくり返り、彼はパソコンデスクに備えてあるスチール製の椅子に頭をしたたか打ち付けた。
 「歩夢さん大丈夫ですか? 部屋が狭いから気を付けて下さいよ」
 秀樹は歩夢の腕を引っ張り、起き上がるのを手伝った。歩夢は恐縮したり感謝したりと忙しかったが、頭をさすりながらどっかりと腰を据えると、グラスを口に運んだ。
 秀樹は反対側のソファに座り、一言二言極めてありきたりの世間話をしたが、歩夢との会話は一向に弾まなかった。ほどなく話すことは途絶えてしまった。
 二人がかわるがわる麦茶をすする音が続いた。
 長い沈黙を持て余した秀樹は、とうとうテレビのリモコンに手を伸ばした。
 食べ歩きの番組が流れた。白い服装の調理人がおいしそうな料理を運んできた。二人はそれに触発されて何か食べたい気分になった。
 「フランスかな?」
 「料理がそれらしいですね」
 歩夢が最後までいうのを聞かないで、秀樹は大きな声を出した。
 「△△地方。やっぱり、フランスだよ」
 秀樹は共通の話題を見つけて心が軽くなった。
 「僕、海外旅行は初めてだったんですよ。亜矢子に思いっきり笑われましたよ。三十過ぎて日本から出たことがない人間は少ないって。ところで、歩夢さんは海外に行ったことはあったんですか?」
 「ええ、まあ」
 それでまた会話が途切れた。テレビの声ばかりがよく響く。
 秀樹は間を埋めるために旅行の思い出話を始めた。思いがけない歩夢との出会いから旅の終わりまで、名場面、珍場面を面白おかしく話し、その話し振りに思わず歩夢も大笑いすることが何度かあった。秀樹は話をしながら、歩夢がやってきた本当の目的をきいてみようと思った。それから栄治との関係を問いただしてみようとも思った。そういう展開に持っていくきっかけを考えていると、彼の目に歩夢のカメラバッグが写った。歩夢はそのカメラバッグを左腕で大事そうに抱えていた。この方面に話題を持っていけば、彼はきっと気をよくしていろいろ話してくれるに違いないと秀樹は踏んだ。
 「ところで、歩夢さんはどんな写真を撮っているんですか?」
 歩夢は恥ずかしそうに言った。
 「お金になるんだったら何でも撮るんです」
 秀樹は俄然この話題に興味を持った。先程の目的はどこへやら、今は純粋に質問を投げかけたい気持ちでいっぱいになった。
 「例えばどんな写真を撮るんですか?」
 「パンフレット用の写真とか、雑誌に載せる写真とか、まあ、とにかく、依頼があれば何でも撮るんですよ」
 「ヨーロッパの風景を旅行社のために撮ったり、レストランのメニューを雑誌のために撮ったりするわけですね?」
 「まあ、そんなところですね。たいした写真は撮ってないんですけどね」
 「そんな、そんな。カメラマンの腕次第で売り上げが違ってくるでしょうから、大変な才能ですよ」
 「そんなことないですよ」と言いながらも、歩夢はうれしそうに照れていた。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日