シナリオ

飛行機
prev

38

 「ねぇ、私のことがそんなに嫌い?」
 どう返事をしたらよいかわからないので返事をしなかった。その代わりにグラスをまた傾けた。
 「兄が発明家だなんて大嘘言ってごめんね。裏の道を歩いているものは、誰だって嫌いだよね。そりゃそうだ」
 「俺は、県民の税金で食わしてもらっている身分だから、密輸組織には関わりたくないね」密輸組織と言ったのは、はったりをかけてみたのである。
 「ねぇ、もしかして変なこと勘ぐってないでしょうね」
 麻衣は床を這って秀樹の隣に座った。腿を秀樹の腿にぴったりつけた。目がとろんとしている。
 秀樹は離れようと思ったが、歩夢の言っていたことが気になっていた。亜矢子はどういうふうに歩夢に写真を撮られていたのだろうか。これから一年間かけて亜矢子への気持ちを本物にしようとしているのに、早くも試練の時がやってきた。
 「私、別にあなたを私たちの組織に入れようなんて思っていないのよ。そのためにここにきたわけじゃないの。もちろん兄にそう頼まれたわけでもないわ。謝るためというのも本当。でも、なぜか、純粋にあなたに会いたかったの」
 麻衣はうっとりした横目で秀樹を見て、唇を開いた。目を閉じた。歩夢がこの家に来てから何日もの間、歩夢と亜矢子のことが気になって仕方がなく、頭がおかしくなりそうだった。しかし秀樹は、頭のもやもやをすっきりさせる方法を一つ見つけてしまった。彼は無心に麻衣とキスをした。香水の香りが心地よかった。麻衣の唇は柔らかく、温かく、みずみずしかった。オレンジ色のワンピースが邪魔そうだった。秀樹はゆっくりと麻衣に触れていった。そのたびに麻衣の体は、はねたりよじれたりした。秀樹の理性はハゲタカが連れ去ってしまった。そうでもなければこんなふうに麻衣の柔らかい体に顔をうずめているはずはないのだと、秀樹は思うしかなかった。アルコールも回ってきて、すっかり気持ちよくなった。麻衣が両腕を首に回して、しがみついている。いつの間にベッドに移動したのだろう? それからいろいろなことがあって、秀樹は耳にかかる麻衣の寝息で目が覚めた。彼の腕枕で寝ている麻衣は、満足しきった表情をしている。
 秀樹はそっと起き上がって夕食の準備をした。冷蔵庫には、鶏肉とにんじんとじゃがいもとたまねぎとなすがあった。彼は、鶏肉となすをゆでて細くきった。ごまだれをかけた。じゃがいもはゆでて塩とこしょうとバターをつけた。鶏肉のゆで汁でたまねぎとにんじんを煮て、中華風のスープにした。パンとチーズを皿によそった。レタスと水菜でサラダを作った。途中で麻衣が起きてきて手伝った。秀樹はてきぱきと働く麻衣を見て、後悔していた。
 「歩夢のことを聞きたいでしょう」と、鶏肉をほおばりながら麻衣がいった。
 「聞きたくない」秀樹は本当は聞きたかった。いや、聞きたくなかった。
 麻衣は新しいビールを開けて、秀樹にすすめた。秀樹はコップを差し出した。麻衣にもビールをついでやった。
 「心配しなくていいわ。あなたが望まなければ、つきまとったりしないわ。ただ、あなたって素敵だなって思っているの。お酒が飲みたくなって、気分がよくなって、抱いて欲しいなって思っただけ。それ以上のことは何もないのよ。私はそういう、いけない女なの」
 麻衣が小悪魔っぽく笑った。そういう表情がとてもよく似合う女だった。笑うと細くなる、涼しそうな目元を見ていると、血液の循環に異常が起こったのではないかと思うぐらい、胸苦しい気分になってくる。
 秀樹は何も言わなかった。
 麻衣のオレンジ色のワンピースにはしわがつき、髪が乱れていた。彼女が何かの義務を自分に負わせようとしても不思議ではないし、彼にとって亜矢子がすでに過去の存在になってしまっていても、誰も責めることはできなかった。結局は自分がしてしまったことなのだ。俺は何をやっているのだろう? 秀樹の頭に血がのぼった。
 「歩夢はねぇ、兄に借金をしているの。それでヨーロッパで私たちの仕事に協力してもらったの。あるとき、私たちの部下が歩夢の恋人を見たんですって。とてもきれいな人だって言ってたわね。兄は、借金の代わりにその人を譲るよう説得していたの。歩夢はそれを拒んだ。まあ、当然といえば当然よね。仕方ないから、彼をヨーロッパにつれていったの。そして、兄は亜矢子さんに出会って、すっかり夢中になった」
 一旦、麻衣は言葉を切った。秀樹は黙って見つめている。麻衣は、イタリアで亜矢子を思う秀樹の気持ちを聞いたとき、がっかりした。しかし、その後、あるものを見て、亜矢子とはきっとうまくいかないだろうと確信した。それで、秀樹に会いに来たのだ。彼女は、勝利を予感した、余裕のある表情で微笑んだ。
 「私、見ちゃったの。歩夢の彼女が誰なのかを。たまたまちょっとした用事で、歩夢のアパートのそばを通りかかったら、二人が部屋から出てきたの。大丈夫よ。兄には言わないわ。でも、まさか歩夢の彼女だったなんてね。これを知ったら、兄は、なにがなんでも歩夢に話をつけようとするでしょうね。ねえ、まだ亜矢子さんと正式に交際しているわけじゃないんでしょう? じゃなきゃ、あの二人が朝方一緒に部屋から出てくるはずないもんね。本当に亜矢子さんには関わらない方がいいわ。歩夢のものでなくなったとしても、兄の女になるだけのことよ。兄がどこまで亜矢子さんを思っているかわからないけど、すぐ飽きちゃったら、歩夢の借金を返済しきるまで、お仕事をしてもらうかもね。女の子にしかできない仕事もいろいろあるしね」
 秀樹の顔が引きつった。まさかここまで深みに入っていたとは……。
 「大丈夫よ。こわがらなくていいの。私があなたのことを好きなうちは守ってあげるから」
 麻衣は美しい顔をほころばせたが、そこには堅気の人間にはない、ある種の凄みのようなものがあった。それが秀樹の癪に触った。
 「余計なお世話だ。俺は後ろめたいことは何もしていない。亜矢子も真面目に生きている。暴力団やマフィアがちょっかいを出すのは弱い人間だけだ。俺たちは、君たちのことはまったく恐れていない」
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日