シナリオ
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亜矢子の説明
△△県庁のオフィスは建築して間もないので、廊下も窓ガラスもうっとりするほどきれいである。広報課の外の廊下に自動販売機が設置してあり、その横に給湯室の入り口がある。亜矢子が、カチャ、カチャと音を立ててカップを洗っている。彼女は気配に気づいて振り返った。「あら、秀樹。カップ、洗ってあげるよ」
「ありがと」
秀樹は、無表情にカップを突き出した。亜矢子はすばやく受け取って、スポンジをこすりつけた。キュッ、キュッという音が水道から落ちる水音と混じる。そのほかは、しんとしている。亜矢子は、洗い終わったカップをふきんで磨き、秀樹に渡した。
「はい」
後ろを向いた亜矢子の顔は、今日も笑顔がこぼれる。しかし、今までとは違って見える。
「今日はじめて聞いたぞ。秀樹の声」
「そうかな?」
「そうよ。いつもは、仕事の手を無理やり休めて、口ばっかり動かしているくせに」
「ちぇ、口の悪い女だな。悪いけど今日は忙しいのでな」
秀樹は、背中を向けてオフィスに戻っていった。眉間にしわがよっていた。亜矢子は、口を尖らせて、つま先で三回ほど床をたたいた。
その後、取り付く島がない秀樹に話しかけることができたのは、やっと昼になってからだった。△△県庁の最上階は展望ホールになっている。裾野の長い大きな山や川幅の広い雄大は河川、それなりにビルの立ち並ぶ市街地などが一望に見渡せる。なんともぜいたくな公共建築物である。昼休みは、秀樹がよくコーヒーを飲みながら、景色を眺めている。彼は、この建物が税金の無駄遣いだと、口では文句を言いながらも、そのレジャー性を人一倍満喫している。
「秀樹」
亜矢子は彼に近づき、努めて明るい笑顔で話しかけた。彼は、やや眉間に皺を寄せて、振り向いた。いつものようにコーヒーカップを持って、襟元とネクタイを緩めている。
「ねぇ、はっきりさせておこうよ。こういうのって、いやよ」
亜矢子は、意気込んでそれだけ言うと、口元をきゅっと結んだ。秀樹は、その様子にさすがにけおされたらしく、体をまっすぐ向けて、何か言いだすのを待った。
フロアは、日本料理店や欧風レストランで昼を済ませようとする勤め人たちがいききしていた。連日の猛暑に疲れきって、誰もがうなだれていた。この暑さにもかかわらず、秀樹はいつもホットコーヒーを持参してここに来るのだった。彼はカップを巨大な窓のそばに置いた。さすがに額から汗が一筋流れている。
「歩夢は私にとって既に過去の存在よ。もうずっと会ってないもの。ねぇ、わかってもらえるかしら。精神的な支えというものだったのよ。大事な存在というよりは、悩みを解消してもらうために必要だったの」
また、秀樹の視線が凍りついていく。
「本当に、会ってないのかな?」
「本当よ!」
秀樹は首を傾けた。
「でも、一緒に暮らしていた。兄弟のようにではなく」
亜矢子は眉間にしわを寄せ、横を向いた。
「暮らしたわ。でも、結局は好きにはなれなかった」
秀樹は、窓辺からコーヒーカップを取り、亜矢子に横顔を見せて立ち去ろうとした。
「待ってよ」
亜矢子は彼の腕を握った。秀樹は足を止めた。
「ここでは詳しく話せない。どんな話を聞いても同じだというのなら、仕方ないと思っている。でも、どうせ同じことなら、最後に聞いてくれてもいいでしょう?」
秀樹は動かなかった。何も言わなかった。
「仕事が終わったら、フィオーレで待っているわ。一緒にご飯を食べましょうよ。ねぇ」
秀樹はもう一度亜矢子を見て、「そうしよう」と言った。亜矢子は顔をほころばせた。本当に亜矢子は笑顔が素晴らしい女性だ。通りかかる男性は彼女に気を取られた。小走りでエレベーターに向かう亜矢子の後姿を秀樹は立ち止まったまま見つめていた。彼女を吸い込んだエレベーターが何階かで止まったとき、秀樹もエレベーターホールへのろのろと歩きだした。