シナリオ

42
守護霊の話
市の中心地の喧騒から少し遠ざかった所に、フィオーレは落ち着きのあるたたずまいで、同じような雰囲気の客を集めていた。亜矢子はこの店を気に入っていた。女子の同僚と時々ランチを食べる。秀樹とも来たことがある。彼女は曇りがかった空のした、マユミの木の横で秀樹を待っていた。雲の切れ間から夕日が亜矢子の顔を射た。レストランの壁が鮮やかなオレンジ色になる。マユミの葉が夕日に塗りつぶされて美しく輝いている。しばらく眺めていると、日が雲に隠れてしまった。彼女はため息をついた。マユミの幹が亜矢子の背丈のあたりから分岐している。たくさんの枝が葉を茂らせている。夏の風がゆさゆさと揺らす。「涼しそうな木だね」
温かな秀樹の声に、思わず頭をめぐらせる。
「夏になると、どの木も涼しそうに葉を揺らすのよ」
「本当に涼しそうだね」
秀樹は触れあうくらいの距離で、亜矢子と並んでマユミの木を眺めた。
「あら、ごめんなさい。木を見るのが癖になっているのよ。遠くの緑を見ると目がよくなるっておばあちゃんに教わったんだ。近くても見ちゃうのよ」
「へえー。俺もこれから見てみようかな」
「さあさ、入りましょう」
二人が中に入ると、ウェイトレスが席に案内した。席に着くと、ウェイターが食器を並べた。パンの焼けるいい匂いがする。チーズの匂いが混ざっている。スプーンやフォークは全部銀製品である。テーブル席が六卓。彼らは窓際のテーブル、真ん中は家族連れ。子どもが父親に学校で習ったことを一生懸命説明していた。奥には若いカップルが幸せそうに話している。カウンターでウェイトレスが水を用意していた。半円形のカウンターの上は、そこだけが周りの天井より低くなっている。そしてその天井の形もカウンターの形に合わせて半円形になっている。その天井に、フックを利用して逆さまにかけられた無数のワイングラスが行儀よく並んでいる。
オーダーを取ってまもなく、エンドウ豆のスープが運ばれてきた。スープ皿も受け皿も温められていた。熱くてなめらかなスープを口に運んだ。
「初めから好きじゃなかったの」
亜矢子はスープを運ぶのをやめて、秀樹を見つめた。秀樹は、黙ってスープを口に運んだ。
「信じてくれないと思うけど、好きでもないのに一緒に暮らしたの。その理由は普通の人にはわからないわ」
ウェイターがサラダをテーブルに置いた。ピッチャーから水も注ぎ入れた。その水を亜矢子は三分の一ほど飲んだ。秀樹は無心にサラダを味わっている人のように振舞った。
「秀樹」
彼が顔を上げると、亜矢子の真剣な目が自分に注がれていた。瞳にテーブルの上で燃えているろうそくの炎が反射していた。
「何?」
「守護霊って信じられる?」
秀樹は、思わず手を止めた。それなりには亜矢子の性格を理解していると思っていたことについて、少し自信がなくなってきた。彼は、超自然現象なんてまるきり信じていないし、そういうことに関心を持つ人間とは決して関わるまいと決めていた。
亜矢子の目つきは穏やかで、超自然現象がエレガントな話題に感じられる雰囲気さえ醸し出していた。「まだまだこいつと関わっていても大丈夫だな」と彼は思った。
「悪いけど、信じられねぇな」
亜矢子は、にこっと笑った。
「そりゃそうよね。もしも私が守護霊といつも話をしているといったら、秀樹、帰っちゃうでしょう」
「そんなことはないぜ。何を話しているんだか、興味があるよ」
亜矢子は首をかしげて微笑んだ。不安が少しだけ和らいだという感じだった。秀樹も亜矢子の目を見つめながら微笑み返した。
「どんな守護霊なんだ?」
「おじいさん。でも、私のおじいさんではないの。私をいつも守ってくれているのよ。優しい目をしている。一度だけ恐い表情を見たことがあるわ」
秀樹は身を乗り出した。「ほう、それはどんなときだったの?」
「私が子どものとき、風邪をこじらせて、かなり重態になったときに、恐い顔でずっと部屋の隅に座っていたわ。丸一日か、二日、そうしていたかしら? ずいぶん時間が経って、ふと顔を上げてみると、おじいさんの顔はいつもの穏やかさを取り戻していた。そのとき、不思議なことに私の体も、すっと軽くなったわ。私はわかったの。おじいさんが私の病気と戦ってくれていたんだって」
「ふうん。不思議な話だな」