シナリオ

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歩夢再訪

 土曜日の昼過ぎ、世の独身男性は何をしているのだろうか、と秀樹は歌とキーボードの練習をしながら、ふと思った。一人暮らしをしていると、自分が何気なくやっていることが、妙に変わっているように思えて仕方ない。実際、大のおとなが休日のたびにポップスの弾き語りの練習を、朝から晩まであきもせずにやっている光景は普通ではないような気がする。バンドを組んでいるとか、音楽の教師であるとか、何かの試験の準備をしているとか、そういうことならば話はわかる。しかし、彼はそのうちのどれでもなく、まったくの趣味でそうしているのだ。ふと客観的に自分を眺めた場合に、ある種の不安を抱き、同世代の独身男性がどのように休日を過ごすのかが気になっても不思議ではない。彼が思うように、このような休日の過ごし方をする人は決して多くはないであろう。それも、彼のように自分で立てた計画に則って、確実に実行する人間は極めてまれであろう。
 呼び鈴が鳴った。インターホンのモニターを見ると、まさしく彼と同世代の独身男性が立っていた。さえない顔をしていた。歩夢だった。
 秀樹は、操作盤で自動ドアのロックを解除した。
 「歩夢さん、十秒以内に自動ドアをくぐって」
 「え? 何ですか? もう一度言ってもらえますか?」
 共有玄関のモニターに近づき、歩夢が聞き返しているうちに、開いたドアが閉じてしまった。スピーカーから秀樹の大きな声がした。
 「おい、ドアが閉まっちゃったよ。歩夢さん、今度こそ頼むよ。一、二、三って言ったらロックを解除するから、すぐに中に入るんだよ」
 今度は歩夢にも理解できた。彼は秀樹の指示通りに中に入ると、エレベーターに乗り、部屋の前まで移動した。歩夢がぼんやりと壁面や天井を眺めていると、勢いよくドアが開き、秀樹が顔を出し、中に入るよう促した。
 歩夢の目にキーボードが映った。譜面台にポップス曲集が立てかけてある。フローリングの床にも数冊のピアノ曲集がおいてある。ポップスとクラシックのものが多い。
 「秀樹さん、すごいですね。キーボードが弾けるんですか」
 「いやあ、あまりうまく弾けないんだよ。でも、将来の目標の一つとして取り組んでいるんですよ」
 「将来の目標ですか。えらいなぁ。それがいくつもあるんですか。キーボード以外には何が目標なんですか?」
 「環境保護と街づくりが俺の夢なんだけど、なかなか道は遠いね」
 「環境保護と街づくり? すごいなぁ。それでいったい具体的にはどういうことなんですか?」
 「俺は県庁の職員だから、仕事を通してこの県を住みやすい場所にしたいと思っているのさ」
 歩夢は驚いた。彼の友人にはそんな発想をするものはいなかったからである。みんな自分が楽しむことだけを考えている。秀樹は冗談を言っているのだろう。そうでないならば、歩夢の頭では理解することはできなかった。
 「ふうん」
 歩夢は秀樹の顔をよく見て、彼が冗談を言っているのでないということに気づいた。それなのでそんな返事をすることしかできなかった。
 「ところで、一曲弾いてみてくださいよ」
 「お恥ずかしいけど、せっかくだから一曲だけね」
 彼は60年代のアメリカンポップスを弾いた。一生懸命さは伝わってきたが、お世辞にもうまいとはいえなかった。歩夢は秀樹を傷つけないように言葉を選んで感想を言った。
 「懐かしい曲ですね。秀樹さん、上手ですね。自分が没頭できるものがあるというのはいいものですね」
 「ありがとう。やっぱり我々の世代にはこういう曲がぴったり来るんですよ。実はね、これも計画に沿って練習しているのですよ」
 「計画?」
 「ええ、ずいぶん先のことをいうやつだなと思うでしょうが、退職した後にやることを見つけなくてはと思いましてね。ピアノで弾き語りできるレパートリーをたくさんつくっておいて、老人ホームなどを回って演奏しようと考えているんですよ」
 歩夢はばかばかしいと思った。そんな先のことを考えて生きているなんて、なんておめでたい男だろうか。
 「人生は一度だけしかないから、なんでも一生懸命やって、充実させたいんですよ」
 「えらいなぁ、秀樹さんは。でも、僕は、いつかどうせ死んでしまうのだからなるべくその場その場を楽しくやっていければいいと思いますよ」
 「そんな、それじゃあ、その時はいいかもしれないけど、年を取ってから後悔することになるじゃないですか。目先のちょっとした楽しみは我慢して、何でも努力しておくと、後になってからとっても大きな楽しみを味わえるんですよ。それこそ、充実感でいっぱいになる瞬間ですよ」
 「理解はできるけど、楽しみを我慢しているうちに死んじゃったら、ばかばかしいですよ。僕はそんな求道者のような生き方はごめんですよ」
 二人の意見はまったくかみ合わなかった。秀樹はそれ以上言うのをやめ、茶の用意を始めた。
 「まあ、まあ、掛けてくださいよ」
 秀樹にすすめられて、歩夢はソファに浅く腰掛けた。しばらく二人は黙って茶を飲んだ。歩夢は茶を少し淡い色のポロシャツにこぼして、慌ててティッシュでふき取った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日