シナリオ

47
「あのさ、亜矢子のことなんだけどさ」
秀樹はこういうことはかえって思い切って言ってしまったほうがいいだろうと思って、単刀直入に切り出した。
秀樹が「亜矢子」と言うのを聞いて、さっきからその名前を口に出したくて仕方のなかった歩夢は、かえってどぎまぎして足を組みなおしたりしてみた。何とかして亜矢子と自分の関係を今この機会にすっかり明らかにしてしまおうと思い、順を追って伝えられるように整理していた考えが、どこかへ飛んでいってしまった。
「それがね、おかしな話なんだよ。なんでこんなふうな展開になったのか、今考えても不思議だよ。縁は異なものっていうけれど、本当にそう思うよ」
秀樹はそんな感じで話を切り出し、初めは同じ職場に勤務している単なる同僚だったのが、カップルでないと参加することが無効になる海外旅行に当選したことをきっかけに、恋愛関係に発展してしまったという、今までのいきさつをすっかり打ち明けた。
「ところがそうなってみると不思議なもので、自分でも気づかないうちにどんどん亜矢子に惹かれていって、どうしても結婚したいという気持ちになってしまったんだ」
歩夢は立て続けに話をする秀樹を前に呆然としていた。もしかしたらとは思っていたが、心配していたことを実際に当人の口から聞くとショックは大きい。成田のカフェテリアで聞いていたときは、もしかしたら本当に懸賞に当たったから仕方なく一緒に旅行することになっただけなのではないかという希望的観測をしていたのだが、それはやっぱり甘すぎた。
彼は秀樹の話を打ち切らせて自分の主張を伝えたかったが、まごまごしているうちにすっかり適度な聞き役になってしまった。どのタイミングで秀樹の話に割り込んで自分の主張を通そうかと見計らっていたが、なかなか好機は到来しない。あろうことに秀樹は、結婚についての自分の考え方をどう思うか、意見を求めてきた。
「なぁ、歩夢さん。俺の考えていることって変わっているだろうか?」
「一年間、お互いの気持ちを確かめあうってことがですか?」
「その方が長続きすると思わないかい?」
秀樹は歩夢の顔から目をそらして、茶を置き、わざと大きな溜息をついた。
「でも、付き合っている男がいるらしいんだ。今はほとんど会っていないようなのだけど、こんな悠長に構えていたら、いつまた彼女とその男が旧の鞘へ収まるかわからないし、やっぱり早く決めたほうがいいだろうか」
歩夢と亜矢子の関係を知らない振りをして、秀樹がとぼけた顔で言うと、歩夢の顔が面白いほどに変わる。
歩夢は歩夢で、この男を出し抜けるかもしれないと思った。この男をぐずぐずさせておくことだ。今打てる手はそれしかない。
「君は立派だよ。確かに、手堅い生き方は、豊かな人生を築くための基本だ。誰でもある程度シナリオを描いて生きているんだろうね。だから、君の考えが変わっているというわけでは決してないと思うよ。君ほど徹底したシナリオをつくる人は少ないかもしれないけどね。シナリオをつくって生きていくことはとても健全だと思うよ。君がうらやましい。だって僕にはそんな生き方はできないからね」
したいと思わないという言葉を歩夢はあやうく飲み込んだ。
「そうか、じゃあ当初の予定通り、一年間かけて、お互いの気持ちをしっかり固めてから結婚することにするよ」
微笑みながらそう言って、冷蔵庫からビールを出して、落ち着いた色合いのソファに座っている歩夢に渡そうとした。
歩夢は、自分はうまくしゃべったのだということがわかった。限定的ではあるが、目的は果たされたのだ。自分の交渉力でこれ以上の成果を引き出すことはできまい。稼いだ時間の中で善後策を考えればいい。
「いや、いいよ。僕はもう帰る」
「じゃあ、俺が車で送ってやるよ。ドライブをしたい気分なんだ」
「いや、いいよ。遠いから悪いよ」
「頼むよ。送らせてくれよ。君が遠い所から電車で来て電車で帰るのは悪いと思っているんだ。それに俺がする生き方をしない君の生き方を教えてほしいしね。君のカメラも見せてもらいたいし」
秀樹と長時間車にいるなんて、考えただけでうんざりだったが、確かに電車で帰るのは時間もかかるし、運賃も馬鹿にならないから、頼むことにした。それに、今回は自分の思いを少しだけだが遂げることができたような気がしたので、秀樹とドライブをしてもけおされないで済むと思った。
外は猛烈に暑かった。秀樹は温度設定を一番低くした。エアコンが効いてくるまで、車内の空気が耐えがたかった。それでも、これから始まる長いドライブに不思議なくらい興奮していた。長距離を走るのは、本当に久しぶりだった。もっとも隣の県までだから、車に乗り慣れている人にとってはたいした距離ではないだろうが。
空気が冷えてくると、車内は静かになった。秀樹は、オートチェンジャーに入っているCDを選択した。エンジンの音が低く静かに響き、音楽と調和した。ショパンのピアノ。『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』。この曲を聴くといつでも気持ちが満ちる。探し当てた店がつぶれていたときもこの曲を聴いたら落ちこまなかった。後からは処理してもらえない会員カードを高い買い物のときに忘れ、その教訓でそれから何回か安い買い物をしたときには持参したのに、またしても高い買い物の代金を払おうとしたらうっかり忘れてしまったことに気づいて軽いめまいが自分を襲ったときにも、この曲を聴いたら意外と立ち直りが早かった。隣に乗っているのが恋敵であってさえも気分がよくなる。見慣れた国道が新鮮に見える。
秀樹はこういうことはかえって思い切って言ってしまったほうがいいだろうと思って、単刀直入に切り出した。
秀樹が「亜矢子」と言うのを聞いて、さっきからその名前を口に出したくて仕方のなかった歩夢は、かえってどぎまぎして足を組みなおしたりしてみた。何とかして亜矢子と自分の関係を今この機会にすっかり明らかにしてしまおうと思い、順を追って伝えられるように整理していた考えが、どこかへ飛んでいってしまった。
「それがね、おかしな話なんだよ。なんでこんなふうな展開になったのか、今考えても不思議だよ。縁は異なものっていうけれど、本当にそう思うよ」
秀樹はそんな感じで話を切り出し、初めは同じ職場に勤務している単なる同僚だったのが、カップルでないと参加することが無効になる海外旅行に当選したことをきっかけに、恋愛関係に発展してしまったという、今までのいきさつをすっかり打ち明けた。
「ところがそうなってみると不思議なもので、自分でも気づかないうちにどんどん亜矢子に惹かれていって、どうしても結婚したいという気持ちになってしまったんだ」
歩夢は立て続けに話をする秀樹を前に呆然としていた。もしかしたらとは思っていたが、心配していたことを実際に当人の口から聞くとショックは大きい。成田のカフェテリアで聞いていたときは、もしかしたら本当に懸賞に当たったから仕方なく一緒に旅行することになっただけなのではないかという希望的観測をしていたのだが、それはやっぱり甘すぎた。
彼は秀樹の話を打ち切らせて自分の主張を伝えたかったが、まごまごしているうちにすっかり適度な聞き役になってしまった。どのタイミングで秀樹の話に割り込んで自分の主張を通そうかと見計らっていたが、なかなか好機は到来しない。あろうことに秀樹は、結婚についての自分の考え方をどう思うか、意見を求めてきた。
「なぁ、歩夢さん。俺の考えていることって変わっているだろうか?」
「一年間、お互いの気持ちを確かめあうってことがですか?」
「その方が長続きすると思わないかい?」
秀樹は歩夢の顔から目をそらして、茶を置き、わざと大きな溜息をついた。
「でも、付き合っている男がいるらしいんだ。今はほとんど会っていないようなのだけど、こんな悠長に構えていたら、いつまた彼女とその男が旧の鞘へ収まるかわからないし、やっぱり早く決めたほうがいいだろうか」
歩夢と亜矢子の関係を知らない振りをして、秀樹がとぼけた顔で言うと、歩夢の顔が面白いほどに変わる。
歩夢は歩夢で、この男を出し抜けるかもしれないと思った。この男をぐずぐずさせておくことだ。今打てる手はそれしかない。
「君は立派だよ。確かに、手堅い生き方は、豊かな人生を築くための基本だ。誰でもある程度シナリオを描いて生きているんだろうね。だから、君の考えが変わっているというわけでは決してないと思うよ。君ほど徹底したシナリオをつくる人は少ないかもしれないけどね。シナリオをつくって生きていくことはとても健全だと思うよ。君がうらやましい。だって僕にはそんな生き方はできないからね」
したいと思わないという言葉を歩夢はあやうく飲み込んだ。
「そうか、じゃあ当初の予定通り、一年間かけて、お互いの気持ちをしっかり固めてから結婚することにするよ」
微笑みながらそう言って、冷蔵庫からビールを出して、落ち着いた色合いのソファに座っている歩夢に渡そうとした。
歩夢は、自分はうまくしゃべったのだということがわかった。限定的ではあるが、目的は果たされたのだ。自分の交渉力でこれ以上の成果を引き出すことはできまい。稼いだ時間の中で善後策を考えればいい。
「いや、いいよ。僕はもう帰る」
「じゃあ、俺が車で送ってやるよ。ドライブをしたい気分なんだ」
「いや、いいよ。遠いから悪いよ」
「頼むよ。送らせてくれよ。君が遠い所から電車で来て電車で帰るのは悪いと思っているんだ。それに俺がする生き方をしない君の生き方を教えてほしいしね。君のカメラも見せてもらいたいし」
秀樹と長時間車にいるなんて、考えただけでうんざりだったが、確かに電車で帰るのは時間もかかるし、運賃も馬鹿にならないから、頼むことにした。それに、今回は自分の思いを少しだけだが遂げることができたような気がしたので、秀樹とドライブをしてもけおされないで済むと思った。
外は猛烈に暑かった。秀樹は温度設定を一番低くした。エアコンが効いてくるまで、車内の空気が耐えがたかった。それでも、これから始まる長いドライブに不思議なくらい興奮していた。長距離を走るのは、本当に久しぶりだった。もっとも隣の県までだから、車に乗り慣れている人にとってはたいした距離ではないだろうが。
空気が冷えてくると、車内は静かになった。秀樹は、オートチェンジャーに入っているCDを選択した。エンジンの音が低く静かに響き、音楽と調和した。ショパンのピアノ。『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』。この曲を聴くといつでも気持ちが満ちる。探し当てた店がつぶれていたときもこの曲を聴いたら落ちこまなかった。後からは処理してもらえない会員カードを高い買い物のときに忘れ、その教訓でそれから何回か安い買い物をしたときには持参したのに、またしても高い買い物の代金を払おうとしたらうっかり忘れてしまったことに気づいて軽いめまいが自分を襲ったときにも、この曲を聴いたら意外と立ち直りが早かった。隣に乗っているのが恋敵であってさえも気分がよくなる。見慣れた国道が新鮮に見える。