シナリオ

48
「僕も前はこの辺に住んでいたんだよ」
亜矢子のアパートの付近に差しかかると歩夢が車に乗ってから初めて口を開いた。自分が亜矢子とそこで暮らしていたことをほのめかしたかったのだ。もちろんそれ以上のことは言わない。
「ああ、そうだったんだ」
秀樹は亜矢子の部屋に行ったことはないが、場所は知っていた。二人で取材している途中、亜矢子が忘れ物を取りに寄ってくれと頼んだことがあるのだ。
「でも、ここから都心に通うのは無理がありすぎるので、数年後に引っ越したんだ」
秀樹はその辺の事情をちょっと知りたい気もしたが、推論するにとどめた。
秀樹が気のない返事しかしなかったので、歩夢はそれ以上話さなかった。
走行音とスピーカーから流れる音声だけが車内に響いた。歩夢は長らく口を閉ざしていた。秀樹は息苦しさに耐えられなくなり、歩夢に話しかけた。
「それにしても、歩夢さんって、いつも静かですね。黙っているほうがクールでいいですよね。俺なんか、よけいなことばっかり言って、よく恥をかくんですよ」
「僕は話をできる人をうらやましく思っているんですよ」
歩夢は、意外なことを言われたので動揺していた。
「僕は小さいころから話をするのがとても苦手で悩んでいたんですよ。一時期は一生懸命話をしようと努力したんですが、最近では無理に話さなくてもいいと思うようになったんです。たぶんそれが自然だと思うんです。犬なんかでも、よく吠えるのもいれば吠えないのもいる。生まれつきと育ちのどちらに原因があるのか分からないけど、三つ子の魂百までとも言いますからね。そんなふうに考えてから楽になりました。だけど、飲み会とかでいろいろな人と顔を合わせるときは相手に気まずい思いをさせるからいたたまれないですけどね。まあ、それでも自然と話が出てくるときもあるので、そういう時はこんなふうにいろいろ話すんです」
そのうちに渋滞で車が動かなくなった。国道はある場所から片側一車線になり、十キロメートルほどそれが続く。エアコンによって涼しくはなっているものの、日差しがきついのでたまらない感じだ。目に映るものがすべて白く、感じられるものがすべていらだたしい。
秀樹はカーナビを見て、信号のない交差点でわき道にそれた。
「たぶん抜け道があるだろう」
ナビの表示によると、狭い路地は突き当たって右に折れるしかないようだった。
「なんだ、元に戻るだけか。ちくしょう。あの辺か? 道みたいだな」
前方に農家を右に曲がる舗装道路が見えてきた。
「待って、砂利道が通ってるよ。まっすぐ行って、どこかに出られそうだよ」
歩夢の言葉は確かだった。秀樹は砂利道に車を入れた。しばらくするとまたアスファルトの道路に出た。何軒かの農家が点在し急に広々とした。どうやら国道に戻らなくて済みそうだ。左折して少し広い道路に入った。すぐ前に大根を山のように積んだ軽トラックがのろのろと走っていた。
「ちぇっ、おっせーな」
秀樹が抜かそうとすると、歩夢がとめた。
「ちょっと待ってくださいよ。あんなに大根を載せて、町の映画館にでも行くと思いますか?」
「そりゃあ、ないよ。まあ、この近くに家があるんだろう」
歩夢のたとえがおかしいので、秀樹は思わず笑ってしまった。
「そう思いますよね」
「ああ」
「あそこで曲がりますよ」
軽トラックは速度を落としたかと思うと、本当に歩夢が指定した交差点で曲がった。
秀樹は驚いて歩夢の顔を見る。
「本当だ。どうしてわかった?」
歩夢は答えない。また、しばらく行くとトマトを積んだトラックに追いついた。
「今度はどうしますか? 抜かしてみる?」
「いや、どうせその辺までだっていうんでしょう? 後をつけるよ。それで、こいつはどこで曲がるんだい?」
「もうちょっと、うん、二つ目の信号かな」
畑の真ん中を広めの農道がどこまでも伸びている。遠くの信号の光も小さく見える。秀樹の目で五つ、六つは見える。トラックは、一つ越え、二つ目にさしかかった。速度を落とした。そして右折した。
「本当だ。気味悪いぐらい当たるな」
「まぐれさ。ところで、さっきからナビの画面が変わってないよ」
「えっ?」
秀樹はとっさにナビの画面を見た。この道に抜けるために入った砂利道でカーソルが点滅しているままだった。画面上に手を触れると地図が固定してしまうので、それかと思ったが、そうではないようだった。いろいろと操作を行ってみたが、効果はない。
「おかしいな。どうしたんだろう?」
彼はハンカチで汗をぬぐった。知らないはずではないこの道を秀樹は知らなかった。とりあえず国道に戻ろうと思ったが、どこを曲がっても国道はあらわれない。まさか異空間に紛れこんだわけでもあるまい。『千と千尋の神隠し』じゃあるまいし。
「ちょっと僕がいじってもいいですか」
「ああ」
歩夢にすがりつくような気持ちで頼んだ。ナビを直してくれる人がいたら、誰にでも頼みたい心境だった。
歩夢はいろいろな操作を試してみた。程なくナビが通常通りに動き出した。国道はすぐ近くだった。出てみると、もう混雑は解消しつつあった。
「ああ、よかった。ありがとう、歩夢さん。あなたは機械に詳しいんですね」
「僕もよくわからないんですけど、何かの加減で元通りになったみたいですね」
「俺は、てっきり歩夢さんの不思議な力で異次元空間にでも入り込んでしまったのかと思いましたよ」
「えっ?」
歩夢は困惑した表情を秀樹に向けた。秀樹はすぐ笑顔を見せた。
「冗談ですよ。冗談。なんだか歩夢さんって不思議な力でも持っているような気がしたものだから」
秀樹は前を向いた。
歩夢は、困惑の影に何かを秘めたような、普通はあまり見かけない表情を一瞬見せたが、秀樹は気づかなかった。
亜矢子のアパートの付近に差しかかると歩夢が車に乗ってから初めて口を開いた。自分が亜矢子とそこで暮らしていたことをほのめかしたかったのだ。もちろんそれ以上のことは言わない。
「ああ、そうだったんだ」
秀樹は亜矢子の部屋に行ったことはないが、場所は知っていた。二人で取材している途中、亜矢子が忘れ物を取りに寄ってくれと頼んだことがあるのだ。
「でも、ここから都心に通うのは無理がありすぎるので、数年後に引っ越したんだ」
秀樹はその辺の事情をちょっと知りたい気もしたが、推論するにとどめた。
秀樹が気のない返事しかしなかったので、歩夢はそれ以上話さなかった。
走行音とスピーカーから流れる音声だけが車内に響いた。歩夢は長らく口を閉ざしていた。秀樹は息苦しさに耐えられなくなり、歩夢に話しかけた。
「それにしても、歩夢さんって、いつも静かですね。黙っているほうがクールでいいですよね。俺なんか、よけいなことばっかり言って、よく恥をかくんですよ」
「僕は話をできる人をうらやましく思っているんですよ」
歩夢は、意外なことを言われたので動揺していた。
「僕は小さいころから話をするのがとても苦手で悩んでいたんですよ。一時期は一生懸命話をしようと努力したんですが、最近では無理に話さなくてもいいと思うようになったんです。たぶんそれが自然だと思うんです。犬なんかでも、よく吠えるのもいれば吠えないのもいる。生まれつきと育ちのどちらに原因があるのか分からないけど、三つ子の魂百までとも言いますからね。そんなふうに考えてから楽になりました。だけど、飲み会とかでいろいろな人と顔を合わせるときは相手に気まずい思いをさせるからいたたまれないですけどね。まあ、それでも自然と話が出てくるときもあるので、そういう時はこんなふうにいろいろ話すんです」
そのうちに渋滞で車が動かなくなった。国道はある場所から片側一車線になり、十キロメートルほどそれが続く。エアコンによって涼しくはなっているものの、日差しがきついのでたまらない感じだ。目に映るものがすべて白く、感じられるものがすべていらだたしい。
秀樹はカーナビを見て、信号のない交差点でわき道にそれた。
「たぶん抜け道があるだろう」
ナビの表示によると、狭い路地は突き当たって右に折れるしかないようだった。
「なんだ、元に戻るだけか。ちくしょう。あの辺か? 道みたいだな」
前方に農家を右に曲がる舗装道路が見えてきた。
「待って、砂利道が通ってるよ。まっすぐ行って、どこかに出られそうだよ」
歩夢の言葉は確かだった。秀樹は砂利道に車を入れた。しばらくするとまたアスファルトの道路に出た。何軒かの農家が点在し急に広々とした。どうやら国道に戻らなくて済みそうだ。左折して少し広い道路に入った。すぐ前に大根を山のように積んだ軽トラックがのろのろと走っていた。
「ちぇっ、おっせーな」
秀樹が抜かそうとすると、歩夢がとめた。
「ちょっと待ってくださいよ。あんなに大根を載せて、町の映画館にでも行くと思いますか?」
「そりゃあ、ないよ。まあ、この近くに家があるんだろう」
歩夢のたとえがおかしいので、秀樹は思わず笑ってしまった。
「そう思いますよね」
「ああ」
「あそこで曲がりますよ」
軽トラックは速度を落としたかと思うと、本当に歩夢が指定した交差点で曲がった。
秀樹は驚いて歩夢の顔を見る。
「本当だ。どうしてわかった?」
歩夢は答えない。また、しばらく行くとトマトを積んだトラックに追いついた。
「今度はどうしますか? 抜かしてみる?」
「いや、どうせその辺までだっていうんでしょう? 後をつけるよ。それで、こいつはどこで曲がるんだい?」
「もうちょっと、うん、二つ目の信号かな」
畑の真ん中を広めの農道がどこまでも伸びている。遠くの信号の光も小さく見える。秀樹の目で五つ、六つは見える。トラックは、一つ越え、二つ目にさしかかった。速度を落とした。そして右折した。
「本当だ。気味悪いぐらい当たるな」
「まぐれさ。ところで、さっきからナビの画面が変わってないよ」
「えっ?」
秀樹はとっさにナビの画面を見た。この道に抜けるために入った砂利道でカーソルが点滅しているままだった。画面上に手を触れると地図が固定してしまうので、それかと思ったが、そうではないようだった。いろいろと操作を行ってみたが、効果はない。
「おかしいな。どうしたんだろう?」
彼はハンカチで汗をぬぐった。知らないはずではないこの道を秀樹は知らなかった。とりあえず国道に戻ろうと思ったが、どこを曲がっても国道はあらわれない。まさか異空間に紛れこんだわけでもあるまい。『千と千尋の神隠し』じゃあるまいし。
「ちょっと僕がいじってもいいですか」
「ああ」
歩夢にすがりつくような気持ちで頼んだ。ナビを直してくれる人がいたら、誰にでも頼みたい心境だった。
歩夢はいろいろな操作を試してみた。程なくナビが通常通りに動き出した。国道はすぐ近くだった。出てみると、もう混雑は解消しつつあった。
「ああ、よかった。ありがとう、歩夢さん。あなたは機械に詳しいんですね」
「僕もよくわからないんですけど、何かの加減で元通りになったみたいですね」
「俺は、てっきり歩夢さんの不思議な力で異次元空間にでも入り込んでしまったのかと思いましたよ」
「えっ?」
歩夢は困惑した表情を秀樹に向けた。秀樹はすぐ笑顔を見せた。
「冗談ですよ。冗談。なんだか歩夢さんって不思議な力でも持っているような気がしたものだから」
秀樹は前を向いた。
歩夢は、困惑の影に何かを秘めたような、普通はあまり見かけない表情を一瞬見せたが、秀樹は気づかなかった。