シナリオ

飛行機
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52

 ビーチボーイズの歌声に乗せて久しぶりに夜通し走りたい気持ちに少しだけなった。夏の夜は暑いだけではなく、何か人の心を軽くさせるものがある。軽装の若者たちや明るいコンビニ、ピカピカに磨かれた車を通り抜けて、歩夢のアパートに着いたとき、秀樹はこの歩夢という不思議な魅力を持つ男となぜかもっと語り合ってみたいと思ったが、翌朝早くに仕事があるからと断られ、今来た道を一人で戻ることにした。
 一人の夜のドライブもよかった。また気分が変わったのでFM放送を聴きながら走った。途中で二回コンビニに寄り、飲み物を買って飲んだ。その度に夜風を味わい、街路樹がさわさわ音を立てているのを聞いた。すると、突然月が翳った。雲が速く動く。風に湿り気を感じた。すぐに雷鳴がして、空が光った。
 確かに歩夢は人のよさそうな人だ。少なくとも、カメラのこととか、彼の言っていたリアルなバトルゲームのこととか、彼の活動的な一面とだけ接している分には、何の害もなさそうだ。
 Tシャツの袖から背中にスーとひんやりとした空気が流れこんだ。秀樹は思わず腕を抱えた。
 しかし、これから何かがあるな。彼は理由ははっきりしないがふとそう思った。嵐の前の静けさ。そんなことを思ったら、鳥肌が立ち、武者震いした。
 車に乗り込んだときには大粒の雨が落ちてきた。二キロも走らないうちに、どしゃぶりになった。ワイパーを最速にしても前が見えにくくなった。彼は細心の注意を払って、ゆっくりと確実な走りで帰路をたどった。

麻衣再訪

 日曜日の朝。秀樹はパンとコーヒーとサラダで朝食を済ませると、インターネットでニュースをチェックして、それからジョギングに出掛けた。田舎道を走るのは、樹木の間を通り抜けることだ。たくさんの花が咲いていた。花の香りやいろいろな匂い、それから鳥の鳴き声がした。途中で運動公園に寄り、冷たい茶を買って飲む。ペットボトルに半分残して、手に持って家まで走る。時々手を持ち替えて冷たい感触を味わう。
 汗だらけで戻り、アパートの前で立ち飲みしていると、期せずして聞きなれてしまった、涼しい声が自分を呼んだ。
 「はーい! 秀樹、おはよう」
 麻衣だ。淡いピンクのプルオーバーを着ていた。ノースリーブでペーズリーの柄が入っている。中にピンクのキャミソールを着ている。夏らしく、とても似合っている。セブンイレブンの大きな袋をぶら下げている。駐車場にはこの間と同じ真っ赤なスポーツカーが止まっていた。
 「セブンで買ってきたんだ」
 麻衣は袋を両手で開いて中身を見せた。二人分に見繕った食材が入っている。
 挽肉と豆腐とねぎと生姜としいたけとわかめと卵とたまねぎといりごま。野菜は必要分だけ切ってある。麻婆豆腐と卵スープの材料だ。おまけに缶ビールと缶チューハイ。
 「肉が心配だから高速飛ばしてきたんだよ。保冷剤も入れてもらった。もっともビールはぬるくなっちゃったけどね」
 「こんなものがセブンで売られているのか?」
 「遅れているなぁ。今ねぇ、セブンに限らず、コンビニで何でも手に入るんだよ。私、コンビニ以外で買い物することってないよ。服もCDも化粧品もコンサートのチケットも毎日の食材も何でもかんでもコンビニで買ってる。インターネットで選ぶと指定した店舗に届けてもらえるのよ。コンビニで取り扱っていないものも大丈夫なのよ。ネットのいろいろなサイトで注文したものがコンビニで受け取れるの。ねぇ、お昼、一緒に食べよ。私、ご飯を作るの好き。あなたも上手よ。この間楽しかったから、また作って食べようと思って」
 「何言っているんだ。俺は朝飯食ったばっかりだよ」
 秀樹は顔中から流れている汗をタオルでぬぐった。
 「平気よ。ちょっと話でもしているうちにすぐ時間が経つから。秀樹、マラソンしてたの? すごーい。ますます好きになっちゃうかもしれないわね」
 秀樹は軽やかに笑っている麻衣を見ていると、先日の思いがけない出来事を思い出し、一人で動揺した。会ってはならない人間だとはっきり認識しているはずなのに、なぜか今はそんなことを考えることすらできなかった。警戒心が自然に麻痺してしまうのだ。蜂などの昆虫で獲物の神経を麻痺させてやすやすと自分の巣に運び込むものがいたように思った。頭のどこかでそんなことをぼんやりと思いながら、体は勝手に部屋のドアを開けて、麻衣を招き入れていた。
 麻衣にソファをすすめると、冷たい茶を出し、秀樹はシャワーを浴びた。
 麻衣はその間、部屋の中を見回した。薄型テレビ。プラスチックと鉄でできた机。そこにデスクトップ・パソコンが置いてある。キーボードと譜面台。一人暮らしの男にしてはきれいにしてあるな、と彼女は思った。
 パソコンの横に大量の文字を打ち出した大量のA4用紙が置いてあった。手に取って見るとどうやら小説のようだ。結構力作だ。文法の誤りもまったくない。
 原稿を元の位置に戻して、キーボードの前に立った。何も見ないで、ショパンの『幻想即興曲』を弾いた。弾き終わっても秀樹は出てこなかった。次にやはりショパンの『ノクターン』を弾いた。途中で秀樹が出てきた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日