シナリオ

飛行機
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53

 秀樹は、頭をバスタオルで拭きながら、薄い衣服をふわふわさせて優雅に演奏している麻衣に見とれた。『ノクターン』を弾き終わると、秀樹は思いっきり拍手をした。
 「麻衣さん、上手だね。驚いたよ」
 麻衣はにっこりと笑った。
 「密輸に関わるような悪い女とは思えないでしょう」
 秀樹は黙っていた。
 「私も小説家になろうと思ってたんだよ」
 いきなり麻衣は言いだした。
 「あっ、俺の原稿読んだのか」
 「すごいね。ちょっと読んだだけだけど、面白かったよ」
 「よかったら、持っていって読んでみないかい」
 「えっ、いいの。うれしいなあ」
 秀樹は原稿の束を封筒に入れて渡した。
 「ありがとう」
 麻衣は、封筒を胸に抱いて、秀樹の顔を見つめた。
 「秀樹は偉いなあ。自分で言うのも変だけど、私も文才はあるのよ。それなのに、私の方は悪事に使ってるなんてね」
 秀樹は何も言わなかった。公開実験のシナリオとか、振り込め詐欺の電話応対マニュアルとか、偽物の商品を売るときの契約書とか、その他にもいろいろと、その道にはその道に必要な文書が必要で、それを作る麻衣のような優秀な人材も必要なんだろうなと、妙に納得していた。
 麻衣は、自分の才能を正しいことに役立てている秀樹が羨ましかった。本音を言うと亜矢子と秀樹を切り離して、秀樹と真面目に生きていきたい。でもそれは無理だ。亜矢子のことを秀樹にあきらめさせることはできないに違いない。それにもかかわらず、この男を自分のものにしてしまいたいという気持ちが、麻衣の中にむやみに膨らんできている。であれば、状況の許す限りにおいて、その男と楽しいときを過ごせばいい。それによって、秀樹と亜矢子を結果的に翻弄することになっても自分の知ったことではない。大人の男と女のやることなのだから。
 「君のことを悪い人だなんて思っていないよ」
 率直すぎる秀樹を、愚かだなぁと麻衣は思いながらも、そんなふうに直接言われると、やはりときめいてしまう。
 「歩夢が言ってたよ。秀樹さんは、男気があっていい人だって。私もそう思うわ」
 「へぇ、歩夢さんがそんなことを言ってたのか」
 秀樹は照れて、何の気なしにテレビをつけた。司会者がゲストとおしゃべりをしていた。
 「歩夢さんて優しくていい感じの人だよね」
 「そう、とても優しいの」
 麻衣は、何か意味ありげな目をしてみせた。秀樹もそれに気づいた。
 「何でそんな目をするんだ? 優しいことが悪いのか?」
 「もちろん、いいことよ。その場その場はね。後先まで考えられるともっといいのだけどね」
 「どういう意味だ」
 麻衣は唇を妖しく引いて、目を細めた。
 「あの人はね、女には特に優しいの。あの人と一緒になる女はずっと不幸なままよ。あの人ね、ふらっと出かけて、居酒屋で初めて出会ったばかりの女と関係を持って、ほれ込んでしまうの。その女がとても不幸で気の毒だと思うと、自分の能力も考えずに奉仕してしまう。女が子持ちで亭主に逃げられ、生活苦からたくさんの借金があって、人相の悪い男が取り立てに来るとか聞くとね、金もないくせに自分が借金をして女の借金を肩代わりしてあげちゃうのよ。とにかく、女に優しすぎて自滅していくタイプね」
 秀樹にもいろいろなことが見えてきた。亜矢子の話や歩夢の態度など断片的な事柄がだんだんと頭の中でまとめあげられていく。すると、むやみに腹が立ってきた。歩夢はいつも困ったような顔をしているが、それはどうやら自分で招いているらしい。しかも、同情の余地がまったくない。穏やかな表情に惑わされて彼をつい気の毒と思ってしまったが、気の毒なのは断然亜矢子の方だ。また、自分の間抜けぶりにも腹が立ってきた。歩夢があまり傷つかないで亜矢子と別れていくようにと、歩夢にある意味では猶予を与えるようなことをしていたのだから、まったくおめでたい人間である。彼には亜矢子の苦悩が鮮明に見えてきた。彼女が自分をいかに必要としているかも。
 「君の話だけで判断するのは不公平なのかもしれないけど、あんな優しそうな顔をして、歩夢さんは、とんでもないことをしでかす奴なんだな」
 「そうよ、でもね、安心して。歩夢は近々始末されると思うわ。そうね。うまくいけば、亜矢子さんは無事でいられるかも」これも、秀樹を亜矢子からできるだけ遠ざけたいと考えている麻衣のはったりだった。
 「どういうことだよ。うまくいけばというのは。うまくいかないとどうなるんだ」
 「うわー、すごーい。トラックが家の中に突っ込んでる。ねぇ、見て見て」
 麻衣は、いつの間にかニュースに変わっていたテレビを見て、事故のすさまじさに驚いていた。秀樹も画面を見て、すごいと思ったが、気を取り直して質問を繰り返した。しかし、麻衣がテレビに集中したきりなので、小さな肩をつかんだ。すると、彼女は両腕で抱きついてきた。秀樹の手は柔らかい胸の中に包まれてしまう。
 「私だってそれ以上はわからないのよ。ごめんね」
 麻衣は辺りが光り輝くほどの笑顔で秀樹をはぐらかした。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日