シナリオ

飛行機
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54

麻衣とドライブ

 麻衣はテレビを観たり、キーボードでショパンやベートーベンを弾いたりして、一日中秀樹と過ごした。その間に麻衣の買ってきた食材で作った麻婆豆腐で昼を済ませた。麻衣は料理が上手だった。ピアノが上手で料理も上手、美人で気立てがよく、そのうえ犯罪者。最後の一つさえなければ申し分ないじゃないか。秀樹は、彼のジャージを羽織って台所に立つ麻衣を見ながらそう思った。
 秀樹はこんなことも考えた。亜矢子とは、結婚という「一大事業」の実現を期して、互いの距離を禁欲的に保ち合っている。一方、ほんの気まぐれにやってきた麻衣とは、まるで本物の恋人同士のように和気藹々と休日を過ごしている。これはやっぱりどう考えてもまずい。もうこういうことはやめよう。そうきっぱりと告げて、麻衣を帰そうと何度も考えた。ところが、魔法をかけられたみたいに、その言葉が口からうまく出せなくなってしまっていた。それに実は、ぐずぐずしているのは何も彼女の魔法のせいにばかりもできなそうだった。彼はそういうことにもはっきりと気づいていた。
 ソファで寝転んでテレビを観ていると、麻衣がこっちのソファに身を乗り出してまともに顔をのぞきこんだ。
 「ねぇ、ドライブにいかない? こんなにいい日なんだもん。山にでも行ってみようよ」
 もう午後四時を過ぎている。
 「今からじゃだめだよ。明日仕事あるし」
 「大丈夫だよ。そこから見える山に行くのなら、夜には戻れるでしょ」麻衣にあきらめる気配はない。アパートの窓の外からは青い山容がよく見える。「ちょっと遅くなるかもしれないけど。途中で何か食べてさ。暗くなったら山でうふふなことしてさ。そしてまた帰ってくるの。そしたら私帰るよ。ドライブに連れていってくれなかったら、今日はもう帰らない。明日の朝、仕事場までついていっちゃうから」
 うふふという言い方がとてもかわいらしく、この提案を却下しづらくさせたことは確かだった。
 「わかった、わかった。じゃあ、途中で食べるものを買っていこう」
 「やったー」
 しぶしぶ承知したという形を取ったが、秀樹の心は少なく見積もってもブルジュ・ドバイより高く飛び上がった。
 彼はクーラーボックスに、ハムだのパンだのワインだのチーズだのを詰め込んで、支度をした。
 「途中で買っていくって言わなかった?」
 詰めながら顔を上げて、「一応念のためさ」と、秀樹は言った。引き締まった顔で言ったが、言い終わってすぐ口元がにんまりした。
 「もうっ! 行く気満々じゃない」
 麻衣はうしろから両手で秀樹の両肩を軽く押した。
 すぐに彼の車で出掛けた。
 山の登り口あたりで日が暮れはじめた。来てよかったと思った。華やかな麻衣がいるせいかもしれないが、景色が違って見えるような気がした。牧場の柵に日が落ちかかっていた。車を停めて、本当の恋人同士のように寄り添って、日の沈むのを眺めた。
 山を登る前に食事を済ませてしまおうかということになった。さすがにここでチーズを食べてワインを飲むというわけにもいかない。そこでレストランに入って、適当なものを食べた。レストラン島田という名のその店は、メニューの豊富さの点においても、クオリティの高さの点においても、レストランと冠するのはいささかおこがましいのではないかと思われるほどのサービスを彼らに提供してくれた。カレーとかラーメンとか焼きそばといったあたりが、なんとかまともに食べられそうだと二人は判断した。二人とも肉入り焼きそばを注文した。豚肉が確かに入っていたが、「肉入り」と断っていない焼きそばにだってこの程度は入っていると思わざるを得なかった。麻衣はあおのりを唇につけて平気でしゃべくった。
 「麻衣、あおのりが唇についてるぞ」
 「えー、やだぁ、ねぇ、秀樹、取って」
 麻衣は唇を突き出した。秀樹はティッシュを出して、取ってやった。本当に誰が見ても完璧な恋人同士である。焼きそばが馬鹿にまずかった。みずっぽいのである。まだ、標高はそれほど高くないが、この店の焼きそばの値段は妙に高かった。肉入り焼きそば七〇〇円。高い、まずい、少なめ。まるで空腹であることを思い知らせるためだけに食べたような焼きそばだった。
 車を少し走らせたら、空腹感に耐えられないような気分になってきた。よっぽどパンを出して食べようかと思ったが、念のためそれは取っておきたかった。まるでこちらの心の動きを読んでいるかのように、コンビニが待ち構えていた。おにぎりとお茶を買った。焼きそばがまずかった分だけ、それらが無性においしく思えた。最初からこうすればよかったのである。
 「楽しいね。こんなに楽しいの久しぶり。秀樹と一緒だとなんだかとても楽しいな。できることならば、ずっとドライブしていたい。ずっと今日だったらいいな」
 麻衣は突然泣き出した。鼻をすすっていた。秀樹は黙っていた。そして麻衣が泣き出した理由を考えながら、連続する急カーブをハンドルで裁いた。高価な服と車を持つマフィアの女には、マフィアの女ゆえの苦労があるということか。足抜けしたいのかもしれない。したいけどできないというふうにも考えられる。秀樹もおかしな気分になりそうだった。このまま麻衣を連れてサンフランシスコまで逃げていけたらいいのに。さしずめ『過去を逃れて』のジェフとキャシーのように。キャシーは宝石のように輝いていた。そして、ずるい女だった。ジェーン・グリアが演じていた。本当にダイヤモンドのようにきれいで、明るい微笑みだった。ジェフはしっかりした男なのに、キャシーの魅力に完璧に敗北した。浮ついた男でなくても、こうなってしまうのだ。ロバート・ミッチャムが葛藤をうまく演じていた。かわいくてずるいキャシーと真面目に生きながらも翻弄されるジェフは、麻衣と俺の姿なのかもしれない。……。まずい、まずい。自分も深みにはまってしまうぞ。そうなったら仕方ないと、頭の中で声が聞こえてきそうになった。妙な考えを振り払うように、頭を小さく振ってみた。麻衣はそのうちにまた元気にしゃべりだした。さっき泣いたことは何でもなかったみたいに思えてきた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日