シナリオ

飛行機
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55

 頂上に着いたときは、真っ暗だった。駐車場の目立たない所に車を止めて、窓を少し開けた。草の匂いがひんやりと鼻をくすぐった。鳥と虫の鳴き声が自分たちを取り囲んでいるみたいだった。
 「ここだと夜景が見えないね。別の場所に車を停めてみようよ」
 言われたとおりに秀樹は坂を下りていく。裏道に入り、さっきより道幅が狭い道路をゆっくり進める。ところどころに景色を眺めるためにつくられた車一、二台分の駐車スペースがあるが、どこも先客がいる。しかし、ほどなく停める場所にありついた。エンジンを切ると、さっきと同じように、少し窓を開けた。やはり涼しい風と何かの鳴き声が入ってきた。夜景がきれいだった。
 「私ね、人の前で泣くなんてめったにないんだよ。別にさ、普通のことだよね。山にドライブして、途中でコンビニに寄って、おにぎりを買って車の中で食べる、なんてことは。でも、秀樹みたいにまっとうに生きている人とありきたりのことをするのが、私にはとても切なく感じられたの。私だってこんな裏道人生を送ろうと思ったわけじゃない。一度結婚をしたのよ。でもうまくいかなくて、別れたの。結婚と同時に会社も辞めたから、離婚後は収入源がなくなっちゃって。『おまえは文才があるから、ちょっと手伝ってくれないか』って、兄にね、軽く頼まれたの。今のお仕事を。一度だけならいいか、と思ってつい手を染めちゃったんだ。お金がたくさん入ってきて、贅沢ができるでしょう。きちんとした仕事を探せばよかったんだけど、だめね、楽な方に流されてしまったのよ。それで、もう後戻りはできないの。今考えてみると、だんなは別に悪い人でもなかったし、誰と結婚しても必ずいやなところを見ながら生活することになるのだから、昔の女の人みたいに、ある程度我慢して添い遂げるべきだったかなぁって。自分は我慢が足りないなぁって。だから、日陰者になって、こんなごく普通の幸福に臨んで、すごくうれしくなっちゃってるんだって。そう思ったら涙が出てきちゃったのよ」
 眼下にどこまでも広がる光の洪水をじっと見詰めながら、秀樹は黙っていた。互いの呼吸や微かな動きが、互いの存在を強く感じさせる。しばらくすると、また麻衣の唇が開くのがわかった。
 「私ね、国文科出てるって前にいったでしょ。それは本当よ。古典の作品を全部読んだんだよ。ついでに漢文の作品も全部読んだんだ。でもね、そういうふうに読めちゃう人って、だめなんだよ。さらっと何でも通り抜けちゃうの。もっと何かに執着を持っていないとね。それはともかくね、私、結構漢文にはまったの。特に詩が好き。『詩経』が一番好き。何でかな? 文学に対する何の野心もなく、のびのびと歌っているからかもしれない。私が辛かったとき、励ましてくれた歌よ」
 麻衣は、漢詩を二度、メロディーに乗せて口ずさんだ。

  鶉(じゅん)の奔奔(ほんぽん)たる 鵲(じゃく)の彊彊(きょうきょう)たる
  人の良きこと無きを 我以て兄と為す

  鵲の彊彊たる 鶉の奔奔たる
  人の良きこと無きを 我以て君と為す

 秀樹は二度言われてもほとんど頭の中に入ってこなかった。彼は漢文になど興味はない。ただ高校時代に受験に必要な科目という理由によって勉強したのみであった。
 「ごめんね、急にわけのわからない詩を歌ったりして。これはね、結婚してた頃、辛くなるといつも歌ってたものなの。曲は私が作ったの。詩に使われている文字自体が少ないから、確定的な解釈というのは難しいみたいだけど、嫁ぎ先で自分につらくあたる人々を兄と呼び夫と呼ばねばならぬ不満を表現した、という説もあるのよ。あー、もう私、いったい何を話してるんだろう。あなたとこうして夜景を見て、ちょっと、あがってしまっているみたい。頭が混乱してどうでもいいことばかりしゃべってる」
 秀樹は意外に思った。大胆でいて、しかも優雅な麻衣が動揺している。なんだか、とてもいとしく思えてきた。
 「麻衣。気にすることはないよ。聞いているから、気が済むまで話してくれよ」
 「ありがと。本当に今日は私、秀樹にいろいろ聞いてほしい。ねぇ、ワインを飲みましょうよ」
 秀樹は後ろの座席からクーラーボックスを取り、中からよく冷えた赤ワインとロースハムを出した。ハムはよく脂がのっていて、切り口が新鮮で、縁に黒胡椒の粒がついている。彼はワインの栓を抜くと、小ぶりのグラスに静かに注いだ。とくとくとく、と良い音がする。
 秀樹はグラスを麻衣に渡した。
 「乾杯」
 麻衣は、気持ちよさそうに、グラスを傾けた。
 「ああー、おいしーい」
 麻衣はエルメスのバッグからハンカチを取り出し、口元を軽くふいた。
 「ねぇ、私ね、本当に非常に優秀な人間なのよ。自分で言うのも変だけどね。△△大学なんて、そう簡単に入れないでしょ。ふふふ。自慢してるわけじゃないのよ。馬鹿ねぇ、もったいないよね。真面目にやってれば今頃……。ごめん、また愚痴言ってる。でも、やっぱり私はとても悪い人なの。いい男がいるとすぐ手を出したくなっちゃうの。いけない女だよね。でもね、本気なんだよ。いつだって本気なんだよ。その人のことがすごく好きになっちゃうの。もう、地球上でこの人が一番好き、って感じなのね。私、思うの。貞節な女性って、それほど男のことが好きなわけじゃないのかもしれないって。でも、たくさんの男のことを本気で好きになってしまうんじゃ、平和じゃないよね。ごめんね、私、今日、なんだかおかしい。変なことばっかり言ってる」
 麻衣は、秀樹の肩に寄りかかった。セミロングの柔らかい髪が、秀樹の首筋や頬をくすぐる。髪の甘い匂いが、鼻をくすぐる。
 「キスして」
 彼は言われたとおりにした。肩を優しく抱いて、唇や舌を吸った。
 彼はこの瞬間自分が完全に麻衣の魔法にかかってしまったということに気づいていた。しかしそれだからといって、魔法を封じる方法を真剣に考えようと思ったわけではない。むしろ積極的に魔法にかかろうとしたぐらいだ。彼はこの瞬間、仕事のことも亜矢子のことも忘れた。彼はこの瞬間、麻衣が犯罪者であることをも忘れた。ただ宇宙空間に二人だけが永久に存在し続けると錯覚した。自分の気持ちの中で麻衣の占める領域が無制限に増大していくように思えた。
 星が瞬いた。夜景が光の渦になった。虫の声がかしましくなった。時折鳥の声が鳴り響いた。
 シートを倒して、二人は互いの体を求めあった。麻衣は周りのことを気にしないで、気持ちに任せて声を上げた。秀樹は一度果ててしまっても、まだまだ体中が煮えたぎっていた。それは麻衣も同じだった。
 彼らは力が尽きるまで抱きあい、すべてが終わるとぐったりして、上着をかけただけで、そのまま死人のように眠り込んだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日