シナリオ

飛行機
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56

秀樹の決心

 寒さで、秀樹は目を覚ました。体がすっかり冷え切っていた。ブルゾンの下で麻衣も寒そうにしている。
 深い闇に星がぎらぎらと輝いている。虫や鳥の鳴き声がものすごい。
 秀樹が服を着ていると、麻衣も起きだして服を着た。そして、彼女はまた深い眠りについた。
 エンジンをかけて、暖房をつけた。やっと暖まってきた。
 秀樹は目が冴えて眠れなかった。
 彼は冷静に自分のことを考えてみた。麻衣への気持ちは確かに強くなっていた。しかし、今の立場を捨てて、麻衣のような女に夢中になるほど若くはない。
 「やっぱり、まったく違う生き方をしているからこそ、急速に接近したということなんだろうな」と、秀樹は思った。
 こんなふうに愛し合ったからといって、麻衣と一緒に暮らしてみようとは思わない。いや、おそらく、というか、きっと、麻衣の方こそ、それを望まないだろう。
 彼の心ははっきり決まった。
 ふいに麻衣が寝ぼけながら自分の腕にしがみついた。
 また少し、麻衣への思いが強まったが、これも一時的なことにすぎないのだろうと、彼は思い直した。妙に落ち着いてきた。すると急に眠気が襲ってきた。よい匂いのする麻衣の細い体を軽く抱きながら、暖かい車内で充実感に包まれた眠りに落ちた。

朝の高原

 五時前には秀樹は起きてしまった。勤め人の悲しい習性だなと、秀樹はおかしくなった。
 まだよく寝ている麻衣を見ていて、今日は県庁に行けそうもないなと思った。
 周りにはさすがに一台も車が停まっていなかった。
 秀樹は、外へ出て小用を足した。高原の冷ややかな空気の中でそんなことをしていると、これが自然の姿なんだなと、妙な感動を覚えた。
 車に戻ると、麻衣が慌てて歩いてきた。恥ずかしそうにしている。
 「こっちに来ないでね」
 麻衣も同じことをしにいくのだと思った。彼女の照れている姿がかわいかった。
 「空気が冷たくて、おいしいね。山はいいなぁ」
 戻ってきた彼女は幸福感に満ち満ちていた。
 「でも、顔も洗えなくていやぁね。戻ろうか。どこかでお茶でも飲もう!」またたく間に身づくろいして、外に出ても怪しまれない姿になった。
 秀樹も同意した。とても空腹だった。
 街に近付いて、住宅地を抜けていると、ふいに麻衣がある家並みを指差して言った。
 「あの家、面白い」
 見ると二軒の町営住宅が並んでいる。
 「ああいう家、結構好き。外見は古いけど、中は広いワンルームで、中華鍋が乗るような大きなコンロが三台あるのよ、きっと」
 そんなはずはなかったが、彼女は夢を描いているのだろうと思い、秀樹は静かに聞いていた。
 「あんな家で料理三昧の毎日を送って、友達を呼んでパーティを開くの。そんな生活がしたいな。お金なんてなくてもいいのよ。ねぇ、秀樹、私とそんな暮らしをしようよ。私、馬鹿なことして生きていくのに疲れちゃった。お兄さんとも縁を切って、やり直したい。あなたのことが今まで生きてきた中で誰よりも好きだから、一緒になりたい」
 秀樹はさすがにぐっときた。麻衣は本気で言っているのではないか、と思った。そして、彼にも同じ思いが一瞬だけもたげてきた。しかし、それは本当に一瞬だけのことだった。彼女にはそんな生活は三日もできやしない。もちろん、今そう思っている気持ちは本当なのかもしれないけれど。
 彼は、「いいね」とだけ答えた。
 「ふふふ。秀樹、好き」
 麻衣もそれだけ言って、またとらえどころのない笑みを浮かべた。
 早朝からやっているファミレスに入った。
 薄い緑色の座席。テーブルの上に置かれたプラスチックのケース。フォークなどの食器がいくつか入っている。テーブルの端の小さな銀色の盆には、調味料と箸と紙ナプキンが並べられてある。自動ドアが開閉するたびに風が入ってくる。駐車場には車がまばらに停まっている。周辺には紳士服店やベビー用品店が見える。
 秀樹は、夜中に目を覚まして考えたことは揺らいでいない、と思った。それに、どうしても気がかりなことを麻衣にきかずにはいられなかった。彼ははっきりと質問した。
 「歩夢さんを始末するってどういう意味なんだ?」
 「そこまではわからないよ。そんなに気になる?」
 微笑む麻衣をじっと見て、何か知っていると確信した。
 「知らない人じゃないしね。それよりも、亜矢子が心配なんだよ」
 麻衣は口を尖らせた。
 「もう、亜矢子さんのことなんか忘れたほうがいいわよ。私では不足なの?」
 秀樹はコーヒーカップを持ち上げて、目を伏せた。
 麻衣は白けた笑みを口元に浮かべた。
 「亜矢子さんに関わるということは、歩夢に関わるということよ。そして、それはトラブルに関わるということよ。あなたにとって何のメリットもないわ。亜矢子さんがどんなに素敵な人かわからないけど、危険よ。まだ、私に関わるほうが安全かもよ」
 麻衣は、かわいいが、やはりマフィアの一員なのだ。歩夢の始末をするとなれば、亜矢子がなんらかの影響を受けないはずはない。その時、秀樹という余計なものがまとわりついていたら面倒だ。亜矢子から切り離そうとして麻衣が現れたのだろう。そして、すべてが終わったら、何の挨拶もなく去っていく。もしかすると挨拶以上のものを置き土産にして、去っていくのかもしれない。とっても厄介な置き土産を……。そう考えると、これまでのすべての出来事は、つじつまが合うような気がした。
 ウェイトレスがコーヒーのお代わりをすすめた。秀樹はもらってすすった。麻衣は無言で断った。
 考えてもみてもさっぱりわからないので、行動を起こすことに決めた。
 「俺は歩夢さんを助けたい。どうすればいい? 金を用意すればいいのか?」
 麻衣は自分の耳を疑った。
 「あなた、今、何ていったの? ねぇ、それって、本気で言ってるんじゃないでしょ?」
 秀樹は、コーヒーを静かに置いて、真直ぐに麻衣の目を見た。
 「本気だよ」
 麻衣は、彼の頬の筋肉がしまり、唇がきっと結ばれているのを見た。そして、意味ありげに笑った。
 「まあねぇ、どうでもいいけど、好きな女の彼氏だか、元彼だかわからないけど、そんな男を助けたって仕方ないと思うけどね。じゃあ、本当に話を進めるよ」
 「そうしてくれ」
 麻衣は救いようがないというふうに、両手のひらを上に向けて、軽く上げた。
 「おめでたい人ね」
 麻衣は携帯を出して、栄治に連絡を取った。
 「あっ、お兄さん。ちょっと教えてほしいの。歩夢の借金っていくら? えっ? 違うのよ、それを立て替えようとしている、奇特な人が出てきたの。……。それが、秀樹さんなのよ。余計なことはいいから、教えて。……。知らないわよ! だって、仕様がないじゃない。……。そうよ。じゃあね」
 細い鎖に、シャドークリスタルの星やガーネットの犬、その他たくさんのホワイトオパールがついた、スワロフスキー製のストラップを指の間から垂らして、携帯を耳に押し当てている麻衣を、秀樹は落ち着いた気分で見ていた。
 携帯を閉じて秀樹の目を正面に見据えた麻衣の顔は、もはやスウィート・ハニーとは呼べそうになかった。
 「三百万」
 秀樹は、しばらく黙って考えた。彼が考えている間、麻衣は静かに待っていた。さすがにこれはとんでもないことになったと、目の前が真っ暗になったが、後に引くことはできなかった。
 「わかった。今日中に払う。場所と時間を指定してくれ」
 「本当にあなたって、どうかしてるわ」
 汗をだらだら流しながら、無言で席を立ち、レジに向かった。胃がむかむかして、車の中でもほとんど口を開かなかった。麻衣は居心地悪そうに助手席で別れまでの時間を過ごした。
 秀樹のアパートが見えると、麻衣はほっと息をついた。そそくさと自分の車に乗り換えて帰っていった。雰囲気としては、恋人と過ごして朝帰りしているみたいに見えた。
 駅のプラットホームで電車を待つ間、二時間取った年休を消化し終える頃に着きそうだと思った。県庁最寄りの駅から歩くと、もうすっかり高くなった日にじりじりあぶられた。舗道はまともに熱を放射し、植え込みの緑はたいした木陰を作れなかった。秀樹は暑さに文句を言いながら、いつもより長く感じられる通勤路を汗だくになりながら歩いた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日