シナリオ

飛行機
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57

秀樹の交渉

 麻衣への未練がないわけではなかった。しかし、彼女は、ジョン・レノンが言った魔性の女なのだ。追わなければやって来る。ところが、彼女を追い始めたら、そのとたんに冷淡になるだろう。ためしに結婚してみるとする。そうしたら、麻衣は、あちこちの男と遊び歩くだろう。その癖、別れ話を持ちかけたら、泣いて謝るに違いない。勘弁してやるとすぐにけろっとして、男たちの後を再び追いまわす。そんなふうに一生彼女の道化として生きていかなければならない。そんなわがままな女に振り回される馬鹿な男を今までは軽蔑していた。しかし、麻衣を知ったら、よくわかった。痛いほどわかった。それほどまでに彼女がいとしい。麻衣は恐ろしいぐらいに魅力的な女だ。まだ人生でほとんど何も経験していない男なら、間違いなくのぼせあがるだろう。しかし、不思議と彼は、冷静さを保てていた。もしかしたら、昔からそうだったのかもしれない。何をするのにも、醒めた自分がブレーキをかける。歩夢だったら、もっと年がいってからでも、恋のために何も見えなくなるということがあるかもしれない。そういう人生を送りたい男がいるのなら、そいつに任せることにしよう。俺はやっぱり麻衣とは無縁でいたい。そして、歩夢の件を清算し、すべての障害を取り除いた上で、亜矢子と一緒になるのだ。
 携帯を開いた。ボタンを押そうとして、また麻衣の笑顔を思い出してしまった。栄治に電話したら、永久に麻衣と会えなくなる。彼は二分考えて、決意を固めた。麻衣にもらったメモを見ながら、ボタンを押した。栄治の部下が出た。電話を換わった栄治に、秀樹は三百万円持って行くとはっきり言った。
 「おまえも物好きなやつだな。三百万をこの目で確認したら、歩夢を許してやるよ。大丈夫、俺は嘘はつかない。金利だってグレーゾーンじゃないぜ。俺、確かに消費者金融やってるけど、本当にすっごく良心的な金利なんだぜ。しかも、他でもない、おまえのためだからってんで、結構おまけしたんだぜ。えっ? 何……。いや、そういうことはしない。金を払ったら、亜矢ちゃんに手は出さないよ。イタリアでおまえの気持ち聞いたからなぁ。ほんと、残念だよ。おまえがどう思っているかわからねえけど、俺、真面目に亜矢ちゃんと交際したかったんだぞ。えっ? 何……。歩夢はどうしてるかって? こっちも慈善事業じゃないからな。金は払わねえ、亜矢ちゃんは俺に譲ってくれねえ、それじゃあ、話にならねえから、こっちへ連れてきてるんだよ。ちょっとだけ紐で縛ってみたよ。それから、ちょっとだけ飛び道具を拝ませて、三百万の代わりに亜矢ちゃんを俺に譲るっていう書類にサインさせようとしてみたよ。……。怒るなよ。だけど、あいつ、一向にサインしようとしやがらねえんで、縛ったまま、二階に置いてあるよ。まあ、とにかく、三百万払うか、亜矢ちゃんを譲るか、どっちかしかないぜ。……。さっきも言ったけど、おまえが、払ってくれたら、亜矢ちゃんには指一本触れないと約束するよ」
 秀樹は低い声で行く意志だけを伝えて、電話を切った。本当は知り合いの弁護士に相談してから行くつもりだったが、余裕はないので、すぐに県庁を出た。「朝も突然の有給、午後も突然の有給か」と課長から皮肉を言われたが、かまわずに飛びだした。
 新幹線に乗って、あっという間に到着した。大きな駅の北口に密集している高層ビル群の、脇道にある古いビル。ガラス張りの中古車販売店。しかし、客は誰もいない。車も置いていない。今流行のネットビジネスのみでやっているように見せかけているが、実は暴力団事務所だった。
 自動ドアが開くと、エアコンで冷やされた空気の感触とタバコの臭いが襲ってきた。にこやかだが顔がまったく笑っていない、頬に傷のある体格のいい男が、「いらっしゃいませ」と応対してくれた。
 「栄治に会いたい」
 秀樹がそれしか言わないでいると、一瞬男は隅のテーブルに置いてある鉢植えで秀樹の頭を打ち砕きたそうな顔をしたが、低い声で「少々お待ちください」とつぶやき、奥の部屋に入っていった。
 栄治が出てきた。服装がヨーロッパにいた頃とは変わっていた。ダークグレーにストライプのスーツ、マリンブルーのシャツ、細めのローアンバーのネクタイ。どこから見てもマフィアだ。髪はオールバックにしている。
 「よお、懐かしいね」話し方は旅行中と変わらなかった。心なしか、親しみまで感じらた。「そうそう、妹が世話になったみたいだな。おまえに振られちゃったって、べそかいてたぞ。悪い女じゃないと思うんだけどな。どうしてもだめか。そう怖い顔するなよ。おまえの方が怖いお兄さんに見えるぜ。大丈夫だよ、亜矢ちゃんには、麻衣とのこと内緒にしとくよ。俺は口が固いから大丈夫だ。まぁ、座れよ。コーヒーか? ウイスキーか?」
 秀樹はわざとそっけなく言った。
 「本題に入ろう」
 「本当に金を持ってきたのか? あんなやつのために? やめとけよ。絶対いいことないぜ。あんな奴、暴力団員の俺が言うのも変だけど、人間のクズだぜ」
 「受け取ってくれ」
 秀樹は金の入った封筒をテーブルの上に置いた。栄治は秀樹の目をじっと見た。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 シナリオ
◆ 執筆年 2010年5月16日