あなたに夢中

ひまわり
prev

4

 温子は、書斎兼居間兼寝室にしている、比較的大きな部屋に通じるドアをあけた。そこも掃除がいきとどいている。右手の壁に向かって机があり、左手にはベッドが置かれている。南のガラス戸から午後の日が、カーネーションをプリントしたベッドカバーに柔らかく射している。
 ベッドを背に、小さな二人掛けのソファーと、小さな木のテーブルが置いてある。そこに掛けると机の横に置かれた小さなテレビが見やすい。
 温子はベッドのシーツをはがし、タンスから出した新しいシーツをおろし、丁寧にベッドをこしらえた。
 手早く掃除機をかけた。
 今度は食事の準備だ。
 まず、キャベツを千切りにして冷やした。次に、キュウリ、トマト、セロリを切って冷やした。豆腐も切って冷やした。ぬるい湯にあさりを入れ、火にかけた。あさりが口をあけると酒を入れ、みそを溶き、細い葱を刻んで、散らした。豚肉に衣を付けて、油で揚げた。
 狭い部屋だから、クーラーの効きはよい。しかし、この小さなダイニング兼キッチンは、風通しが悪く、油を使うとひどい状態になった。龍一は揚げ物を見ると幸せそうな顔をする。だから温子はそれが苦にならなかった。歌を口ずさんだ。
「あんなに、はげしい、潮騒が……」
 『セーラー服と機関銃』を友だちと見にいって以来、薬師丸ひろ子のファンだ。
 声と歌い方と表情がよく似ていると、温子に告白した男子に言われた。
 スキー合宿の余興で無理矢理クラスの女子たちに舞台にひっぱり出され、苦し紛れに『探偵物語』を歌った。その瞬間、恋に落ちたと、彼は言った。お調子者。温子はいやな気がした。
 ごめんなさい、と言って、くるっと背を向け、空き教室から出た。
 それから数日間、彼は悲しそうにしていた。それも温子にはポーズとしか思えなかった。
 温子が冷淡なので彼はそれ以上言い寄ってこなかった。それでもときどき、なにか言葉を掛けにくる。
 そのあと、ちょっと進展した。でも、結局はいっしょになれなかった。
 彼は東京の国立大学に進学した。卒業式の当日、優しい目で、さよなら、元気でな、と声を掛けにきた。しばらく見つめあっていた。彼は優しく抱いてくれた。長いキスをした。目をあけると、彼はさびしそうに微笑んで、じゃ、と言った。温子は手を振った。彼も手を振った。
 それが最後だった。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 あなたに夢中
◆ 執筆年 2000年8月6日