あなたに夢中

ひまわり
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「波のページをめくる、時の見えない指先……」
 龍一のために料理をしているときに、こんなことを思い出している自分にあきれた。『探偵物語』を口ずさむと自然にそうなってしまうだけなのだが、龍一との関係に不安を感じているせいもあるのかもしれない。
 こんがりきつね色に揚がったカツを白い大きな皿に移して、冷蔵庫から取りだしたタッパーをあける。みずみずしい、くし型に切ったレモンがぎっしり詰まっている。レモンの発散する香りをかいで、頭がすっきりした。鮮度の落ちやすいものを、使いやすい大きさに切って保存するのは、温子の得意技だ。冷蔵庫にはタッパーがたくさん並んでいる。ポテトサラダとか、リンゴのタルトとか、次々に取りだしては、盛りつけていく。さくらんぼの刺繍の入った、ちっちゃなベージュのエプロンをはずし、真っ白なふわふわのタオルで額の汗を拭きとった。もう間もなく龍一はやってくるはずだ。さっきまで頭の中に浮かんでいたことはすっかり消えていた。我知らず気分が高揚し、口もとが緩んだ。大事な大会で勝ち抜いたテニス部の高校生のように、さわやかな笑顔である。
 できあがったものを小さなキッチン・テーブルに美しく並べ、コーヒー豆を缶に移していると、チャイムが鳴った。部屋の中を音高く走り、温子は受話器を取りはずした。
「どちら様ですか?」
 受話器はドア・チャイムに接続してある。
「おれ」と、機械を通した声が言った。
「いま、あける」
 温子は鍵をあけて、ドアをひらき、龍一の腕にしがみついた。
「ごはん、用意してあるよ」
 照れ屋の龍一は、腕に柔らかい感触、顔に甘い香りがして、胸を詰まらせて頭をかいた。
「やったー、おなか、ぺこぺこ」
 龍一の肉声が、温子の耳に心地よく響く。
「あがって」
 龍一は靴を脱いで部屋にあがった。温子は靴をそろえてやった。
「いい匂い。もしかしてトンカツ?」龍一は顔をほころばせた。
「当たり! そんなによろこんでもらえるなんて。作ってよかったわ。なにか飲む?」
「車で帰らなきゃ」
「平気よ、ビール一缶ぐらいなら」
「どうしようかな」
 温子はにっこりと微笑んだ。それから、急に軽い悲鳴をあげた。
「あっ、忘れてた。ねえねえ、ちょっと見て見て」
 温子は買い物袋からひまわりを取りだして、ワインの瓶にさして、キッチン・テーブルのまんなかに置いた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 あなたに夢中
◆ 執筆年 2000年8月6日