あなたに夢中

ひまわり
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32

 龍一はゴムボートを足踏み式のプラスチックのポンプでペコペコふくらましはじめた。
「え! 泳ぐの?」
 龍一は横向きのまま少し顔を温子に向けた。そしてポンプ踏みを中断すると、短パンをずり下げた。新しい紺の海パンをはいていた。
 温子は軽快に笑った。
「用意がいいのね。わかったわ。ちょっと待ってて」
 温子が黄色とオレンジとマリンブルーの新しい水着をつけてもどると、ゴムボートができあがっていた。

 傾きはじめた日射しが、ゆるやかにうねる波にきらきら反射している。磯の岩陰から影絵のようにゴムボートが近づいて、やがて浜に打ちあげた。引き締まった体つきの龍一とほっそりしているがばねのようにしなやかな温子が、ゴムボートを車までひっぱっていった。
「すごいね。こんなに獲れたよ」
 ゴムボートの中は海胆でいっぱいだった。
「密猟者め」
 龍一が温子の目を見て言った。
 温子もやり返した。
「共犯者め」
 ふたりは声を立てて笑った。
「赤ワインを飲みながら、海胆を死ぬほど食べよう」
「賛成」
 海胆はナイフでたたくと殻が壊れた。中にあるオレンジ色の身をスプーンですくって食べると、温子は顔をほころばせた。
「おいしーい。わたし、こんなの初めて」
 龍一はワインの栓を抜き、マグカップにそそいで、温子に渡した。自分のマグカップを近づけると、「乾杯」と言った。
「乾杯」温子が言葉を重ねた。

 宝石のようにきらめく波の近くに膝をそろえてふたりは座った。
「わたし、海胆でおなかいっぱいになったの初めてよ。昔々のまた昔の人になった気分」
「海胆を食べすぎて、体中から棘が生えた人の話、知ってる?」
「またそんなこと言ってる」
「じゃあ、陸に憧れた海胆の話は?」
「へえー、なんか今度はロマンチックね。どういうの?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 あなたに夢中
◆ 執筆年 2000年8月6日