あなたに夢中

ひまわり
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「昔々、海胆がいました。海胆は陸に憧れていました。そして、ある日とうとう陸にあがって栗になりました、とさ」
「もうきかない」温子は頬を膨らませて横を向いた。
「もうひとつ、きれい好きな海胆の話」
「もうわかったわよ。タワシになったんでしょ」
「ああー、ばれたか」
「あーあ、付きあいきれないわ。わたし、着替えてくるね」温子は立ちあがりかけた。
 龍一が温子の手をつかんで座らせた。
「ここで着替えても平気だよ。だれも見てないから」
「だって」
「目を閉じてるから」
「どうしようかな」
「大丈夫だよ」
「じゃあ、ちゃんとした面白い話を聞かせてくれたらね」
「狼狽の話は知ってる?」
「狼狽って、慌てふためくって意味の狼狽?」
「そうだよ。どうして狼狽が慌てふためくって意味なのか知ってるかい」
「さあ、どうしてかな。森で狼に遭遇して慌てて逃げたからとか」
「違うよ。狼も、狽も、オオカミの一種で、狼は前足が長くて後ろ足が短いんだけど、狽は前足が短くて後ろ足が長いんだ。どうもバランスが悪いので、いっしょにいないとうまく歩けないらしい。離れると転倒する。狼狽は、狼と狽が転倒して慌てふためいた様子からできた熟語なんだそうだよ」
 肩越しにアーモンドみたいな形の目が龍一の目を見たと思ったら、「プッ」とふきだし、白い歯を奥のほうまで見せていた。
「また、また。よくそういうどうでもいいことを、君は次から次へと思いつくものだね」
 龍一は真顔になった。
「ほんとうだよ。小学館の『大辞林』で調べたら載っていたんだよ。あまりにも強烈な印象があったんで、忘れられないんだ。狼と狽がいったいどうやって、互いの体を支え合って歩くのか、いくら想像してもわからないんだよ。だから、おれは暇さえあればいつもこのオオカミたちの歩き方を想像してしまうんだ」
 温子はかんだか疳高い声でしばらく笑っていた。手を水着にかける。
「ちょっと面白かったから、脱いじゃおうかなあ?」と言って、温子はわざと色っぽい仕草で体をくねらせた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 あなたに夢中
◆ 執筆年 2000年8月6日