あなたに夢中

ひまわり
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36

 龍一は沖に泳いでいった。疲れると仰向いて休んだ。どんどん小さくなって見えなくなった。
 温子はそのうちにまぶたが重くなった。
 声がして温子は起きた。龍一の声かと思ったら、そうではなかった。
 広場にバスがとまり、大勢の人がガヤガヤとあふれ出てきたのだ。中年以上の夫婦らしい取り合わせが多かった。
 温子はしばらく夢を見ているのかと思った。しかし間違いなく現実であることがわかると、急に顔つきを変えて起きあがった。水着のうえに裾の長い、白いTシャツを着てバスに近づいた。
 バスの降り口までくると大学生ぐらいの女の子と鉢あわせになった。自分より年上なのか、年下なのか、見当がつかなかった。その女の子は日によく焼けていて、いかにも敏捷な感じだった。温子の顔を見るとびっくりしたような表情になったが、すぐに顔をそらし、背を向けてすたすたと立ち去った。涼しそうな水色のブラウスを着ていた。紺の短パンから出た足がほっそりと、しかもしなやかだった。
「あきちゃん、待てよ」
 そのあとから降りてきた五十がらみの男が呼びとめると、その女の子は振り向いた。
「荷物をひとつ忘れてるよ」
 女の子はもどり、土産物が入った紙袋を男から受け取った。
「ありがとう、おじさん」
 そう言うと女の子は再び去っていった。
 温子は意を決して、おじさんと呼ばれた男性に声をかけた。
「すみません。車のタイヤが側溝にはまってしまったんです。手を貸していただけませんか」
 男は温子を品定めするように見てから言った。何十年間浴びた日光を皺に織りこんだ顔がほぐれた。
「ああ、いいよ。人を集めてくるから、ちょっと待ってて」
 そのあとは早かった。男はおかみさんといった感じの威勢のよさそうな女性に荷物を渡し、先に降りて広場にたまっている男たちに声をかけた。男たちは荷物を置いて温子のほうへ近寄った。
 温子はぺこりと頭を下げ、車の場所まで案内した。男たちはいとも簡単に車を広場に運んだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 あなたに夢中
◆ 執筆年 2000年8月6日