あなたに夢中

ひまわり
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「温子さんだろ。きれいでたまげたよ」
 さっきの男性が、人懐こい顔をして話しかけてきた。
 温子はものすごくびっくりした。体がほんとうに何センチか飛びあがった。
「おじさん、どうしてわたしの名前を知っているんですか?」
「いやあ、龍一からいつも聞かされてるよ。写真も送ってきたし。すぐわかったよ。ほんとうにあんたきれいだな」
「でも、どうして、どうして。龍一君、呪われた漁村だって」温子は、「はっ」と言って、口を押さえた。
「呪われた漁村? ハッハッハッ、龍一らしいや、まったくあいつは昔からぽんぽん、ぽんぽん、奇想天外なことばかり言うやつなんだよ」
「ごめんなさい。わたし、そんな不吉な言葉、言うつもりじゃなかったんですけど」
「いいよ、いいよ。おじさん、龍一のこと、小さいころからよくわかってるもんね」
「でも、わたし、車のタイヤは側溝にはまっちゃったし、どの家もがらんとしてだれもいないし、近くに店も電話もないし、もうどうしようかと、ほんとうに怖かったんです。世界に見捨てられたと思いました」
 温子は、この海岸に着いてからのことをすっかり話した。

 男は鷹揚に笑いながら言った。
「龍一のいたずらにはめられたんだよ。あいつは昔からそういうところが……」
「あんた」
 さっきの威勢のいいおかみさんが割りこんできた。このふたりはやはり夫婦なのだ。おかみさんが伺うような視線で温子を見て、亭主のほうを向いた。
「この人が龍一の。きれいな人だねえ」
 亭主は肯いた。
 おかみさんが温子に向き直り、改まって言った。
「はじめまして、温子さん。龍一の母です。こっちが龍一の父親です。あなたのことは龍一からよく聞いております」
 母親は温子に深々とお辞儀をした。温子もかしこまって頭を下げた。父親も慌てて腰を折った。あいさつがすむと、龍一の父親は、温子から聞いた呪われた漁村のことを話した。母親はぷっと吹き出しておなかを抱えて笑った。笑いが収まると、温子のほうを向いて息を切らしながら言った。
「ごめんなさいね、温子さん。龍一に怖い思いさせられて、さぞ心細かったでしょう。龍一は昔からそういうところがあるんです。けっして悪気があるというわけではないんだけどね」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 あなたに夢中
◆ 執筆年 2000年8月6日