憑依

3
一週間後には豊雄が、シャム猫の「シュガー」を一切面倒みていた。はじめのうちは、宣言どおりまったく世話をしなかったのだが、家族の者があまりにもいい加減で、あきれたのである。
姉夫婦が子猫を置き、新車の自慢のコロナに乗って神戸に戻り、二、三日して、豊雄がそれとなく見ていると、餌箱が半日も空っぽのことがある。シュガーは、何度も様子を見にくるが、そのたびに、首をうなだれて、縁側に引き返す。豊雄がたまたま通りかかると、すり寄ってしきりにねだる。しかし、豊雄は心を鬼にして当初の方針を堅持する。
トイレも汚い。シュガーは、自分が製造した有機物を慎重によけて、ふんばっている。
負けた。豊雄は元来慈悲深い性格である。鉄のように強固に思われた方針も、一週間の後には撤回せざるを得なくなった。むしろ彼は、シュガーが悲しげに鳴くのに、少しも気にならないでいられる家人たちを見て、そのあまりの冷酷無残の心持ちが到底理解不能であった。しかも、豊雄がシュガーに対して手厚く世話を始めたのに、何の違和感も抱かず、まったくの自然体で受け止めている姿に接しては、あきれて、何の言葉も出なかった。ただ、兄嫁の菜摘だけは別で、初めは面倒を一切見るといった亭主の手前、なるべく手を出さないようにしていたが、根負けした豊雄が世話をみだすと、積極的に手を貸してくれた。結婚前、とある事情があり、豊雄と兄嫁はなるべく接触しないようにしていたが、シュガーを媒介にして、同じ時を過ごすことが増えていった。
兄の武一郎は、漁から帰ってくると、主人面してシュガーとたわむれる。「シュガー」と命名したのはこの兄だ。彼は以前に、マリリン・モンロー主演の映画を観てぞっこん惚れこんで、こっそりシネマ雑誌を買いこんでは、弟の部屋で鑑賞していたことがある。こっそり鑑賞しなければならなかったのは、まだ新婚ほやほやで、令夫人の怒りを恐れていたからである。結婚当初の兄嫁は、なかなかのやきもち焼きだった。したがって兄上、しばらくの間は色事からも足が遠のき、街を歩くとき、ミニスカートの高校生に一秒以上目をやっただけで、隣に並んでいる細君に、にっこり笑顔で頭をたたかれる、という始末であったから、マリリンなんか、居間に広げておけなかったのである。マリリンが出演した、ある映画での役名「シュガー」が、どうも出どころであるらしい。ところが、シュガーは、いくら武一郎が主人ぶってみてもすぐに腕の中から抜け出し、豊雄の胡坐をかいた太ももに頭を乗せてくつろいでしまう。すっかり豊雄を気に入ったみたいで、腹が減ると豊雄に「ニャーン」、食後の運動から戻ると、豊雄の白いワイシャツに飛びつき泥だらけ、コタツでは豊雄の足の指をなめ、豊雄が数学の応用をきかせて、麻雀パイを一人で並べていろいろと順列の研究をして、それにも疲れて布団にもぐりこもうとすると、すでに布団の中で丸くなって、温めておくという忠義ぶり。
姉夫婦が子猫を置き、新車の自慢のコロナに乗って神戸に戻り、二、三日して、豊雄がそれとなく見ていると、餌箱が半日も空っぽのことがある。シュガーは、何度も様子を見にくるが、そのたびに、首をうなだれて、縁側に引き返す。豊雄がたまたま通りかかると、すり寄ってしきりにねだる。しかし、豊雄は心を鬼にして当初の方針を堅持する。
トイレも汚い。シュガーは、自分が製造した有機物を慎重によけて、ふんばっている。
負けた。豊雄は元来慈悲深い性格である。鉄のように強固に思われた方針も、一週間の後には撤回せざるを得なくなった。むしろ彼は、シュガーが悲しげに鳴くのに、少しも気にならないでいられる家人たちを見て、そのあまりの冷酷無残の心持ちが到底理解不能であった。しかも、豊雄がシュガーに対して手厚く世話を始めたのに、何の違和感も抱かず、まったくの自然体で受け止めている姿に接しては、あきれて、何の言葉も出なかった。ただ、兄嫁の菜摘だけは別で、初めは面倒を一切見るといった亭主の手前、なるべく手を出さないようにしていたが、根負けした豊雄が世話をみだすと、積極的に手を貸してくれた。結婚前、とある事情があり、豊雄と兄嫁はなるべく接触しないようにしていたが、シュガーを媒介にして、同じ時を過ごすことが増えていった。
兄の武一郎は、漁から帰ってくると、主人面してシュガーとたわむれる。「シュガー」と命名したのはこの兄だ。彼は以前に、マリリン・モンロー主演の映画を観てぞっこん惚れこんで、こっそりシネマ雑誌を買いこんでは、弟の部屋で鑑賞していたことがある。こっそり鑑賞しなければならなかったのは、まだ新婚ほやほやで、令夫人の怒りを恐れていたからである。結婚当初の兄嫁は、なかなかのやきもち焼きだった。したがって兄上、しばらくの間は色事からも足が遠のき、街を歩くとき、ミニスカートの高校生に一秒以上目をやっただけで、隣に並んでいる細君に、にっこり笑顔で頭をたたかれる、という始末であったから、マリリンなんか、居間に広げておけなかったのである。マリリンが出演した、ある映画での役名「シュガー」が、どうも出どころであるらしい。ところが、シュガーは、いくら武一郎が主人ぶってみてもすぐに腕の中から抜け出し、豊雄の胡坐をかいた太ももに頭を乗せてくつろいでしまう。すっかり豊雄を気に入ったみたいで、腹が減ると豊雄に「ニャーン」、食後の運動から戻ると、豊雄の白いワイシャツに飛びつき泥だらけ、コタツでは豊雄の足の指をなめ、豊雄が数学の応用をきかせて、麻雀パイを一人で並べていろいろと順列の研究をして、それにも疲れて布団にもぐりこもうとすると、すでに布団の中で丸くなって、温めておくという忠義ぶり。