憑依

7
「数学です」
豊雄はノートにくぎ付けになったまま言った。
「それはわかるわよ。数列? 確率?」
「積分です」
「ふうん」
菜摘は、高校時代結構成績がよかった。数学も好きで、よく勉強していた。
「私も積分はわかるけど、その問題は難しすぎるな。ちょっと、教えてみてくれない?」
豊雄は、数学は解くのも好きで、友達に教えるのも好きだった。初めて見た時以来、兄嫁の菜摘のことがとても気になってもいた。こんな間近に、二人きりで話をしたことは、記憶にない。おいしいケーキのような、甘い香りが、さっきから漂ってきて、息苦しい気持であった。
肘からまっすぐ立てた二本の細い腕、両手の平にほっぺたを乗せて、形のいい目で豊雄を見つめていた。十分かそこらすると、賢い菜摘は、すっかり理解してしまった。豊雄は、積分によって処理される数の美しさよりも、兄嫁の髪や背中、その他の部分の形や、微妙な動きの美しさやなめらかさの方が、ずっと気になった。菜摘は結構真剣に勉強した。豊雄は教えているうちに、数学に対する理解が深まった気がした。人に教えるとよくわかるようになると、高校の教師から聞いたことがある。本当にその通りだと思った。豊雄はそのことを菜摘に言ってみた。菜摘は、「もし、豊雄さんの助けになるんだったら、私、毎日、数学教えてもらうことにしてもいいわよ」と目を輝かせて言った。兄がなんていうか心配していると、「私がうまく話しておくから大丈夫」と、簡単に彼女は不安を振り払った。事実その通りになった。武一郎は、弟に対して、まったく何の心配もしていなかった。むしろ、母の方が心配し、こだわったぐらいである。母の心配を武一郎は笑い飛ばした。かくして、毎日、学校から戻ると、家の中で二人だけの、密度の濃い時間が流れるようになった。二人の様子をシュガーは、時折、じっと見つめていることがあった。
母はなるべく早く家に戻り、それとなく二人の様子を窺うようになった。茶などを持っていきなり部屋に入ってくることもある。豊雄は用心した。勉強以外のことを言い出せば、危うくなりそうだった。菜摘が待っているようにも思われた。しかし、わからない。ほのめかせば、はぐらかされるかもしれない。手に触れようとすれば、ぴしゃりとやられるかもしれない。正直な気持ちを率直に口にしたならば、兄に告げ口され、父から謹慎処分を食らうかもしれない。それにしても、自分を見るあの目、確かに何かありそうだ。夜な夜な、兄嫁のことを思い、よく寝付けなかった。ある時、「問題作ってみたの。私の見てない時に解いてみて」と、意味ありげに、ノートの切れ端をよこした。次の日、学校の昼休みに、ものの二、三分で解いた。
豊雄はノートにくぎ付けになったまま言った。
「それはわかるわよ。数列? 確率?」
「積分です」
「ふうん」
菜摘は、高校時代結構成績がよかった。数学も好きで、よく勉強していた。
「私も積分はわかるけど、その問題は難しすぎるな。ちょっと、教えてみてくれない?」
豊雄は、数学は解くのも好きで、友達に教えるのも好きだった。初めて見た時以来、兄嫁の菜摘のことがとても気になってもいた。こんな間近に、二人きりで話をしたことは、記憶にない。おいしいケーキのような、甘い香りが、さっきから漂ってきて、息苦しい気持であった。
肘からまっすぐ立てた二本の細い腕、両手の平にほっぺたを乗せて、形のいい目で豊雄を見つめていた。十分かそこらすると、賢い菜摘は、すっかり理解してしまった。豊雄は、積分によって処理される数の美しさよりも、兄嫁の髪や背中、その他の部分の形や、微妙な動きの美しさやなめらかさの方が、ずっと気になった。菜摘は結構真剣に勉強した。豊雄は教えているうちに、数学に対する理解が深まった気がした。人に教えるとよくわかるようになると、高校の教師から聞いたことがある。本当にその通りだと思った。豊雄はそのことを菜摘に言ってみた。菜摘は、「もし、豊雄さんの助けになるんだったら、私、毎日、数学教えてもらうことにしてもいいわよ」と目を輝かせて言った。兄がなんていうか心配していると、「私がうまく話しておくから大丈夫」と、簡単に彼女は不安を振り払った。事実その通りになった。武一郎は、弟に対して、まったく何の心配もしていなかった。むしろ、母の方が心配し、こだわったぐらいである。母の心配を武一郎は笑い飛ばした。かくして、毎日、学校から戻ると、家の中で二人だけの、密度の濃い時間が流れるようになった。二人の様子をシュガーは、時折、じっと見つめていることがあった。
母はなるべく早く家に戻り、それとなく二人の様子を窺うようになった。茶などを持っていきなり部屋に入ってくることもある。豊雄は用心した。勉強以外のことを言い出せば、危うくなりそうだった。菜摘が待っているようにも思われた。しかし、わからない。ほのめかせば、はぐらかされるかもしれない。手に触れようとすれば、ぴしゃりとやられるかもしれない。正直な気持ちを率直に口にしたならば、兄に告げ口され、父から謹慎処分を食らうかもしれない。それにしても、自分を見るあの目、確かに何かありそうだ。夜な夜な、兄嫁のことを思い、よく寝付けなかった。ある時、「問題作ってみたの。私の見てない時に解いてみて」と、意味ありげに、ノートの切れ端をよこした。次の日、学校の昼休みに、ものの二、三分で解いた。