憑依

花
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 海岸の民宿が並んでいるところに、「漁師会館」はあった。貧しい漁師たちは、晴れの日や法事などで、自分の家を会場にすることもできないし、式場や料理屋など高くて使えない。その他にも、いろいろな寄り合いがある。そういうときのために、昔、大宅家が出資して、公民館的な建物を建てた。かなり古いものだが、今でも時折使われる。皆、親しみをこめて「会館」と呼んでいる。代々、「会館」の清掃と鍵の管理は、網元の若奥方の仕事と決まっている。そのしきたりは今も機能しているから、菜摘は「会館」の鍵を自由にできるし、日程もすべて把握している。明日の朝九時、利用者はいないのだろう。明日は日曜で学校は休みである。ちょうどとびうおのシーズン真っ盛りで、漁に休みはない。兄は朝早くから出かけるし、母はその手伝いに行く。父も兄を少し手伝うが、実は、本当の目的は自家用クルーザーでの大物釣りだ。明日は釣り友達の県のお偉方も誘っているらしい。家の番をしている兄嫁は、いつも九時ごろ会館の掃除をする。一日ぐらい掃除をしないで、豊雄と過ごしてもどうってことはない。
 朝目が覚めると気分が高揚した。胸が高鳴った。と同時に怖い気もした。皆、朝早い。居間には豊雄の食事だけが残されていた。あさりの味噌汁がうまかった。シュガーは見当たらなかった。子猫たちがじゃれあっていた。秋も深まってきた。外に出て、意味もなく、けやきの色づいてきた梢を見上げて、ゆっくり歩いて行った。潮風が頬をちくりと刺す。まもなく白茶けた雨戸が見えてきた。漁師会館だ。縁側の脇を通り抜けていると、玄関の敷石にシュガーがしっぽを立てているのが見えた。近づくと、背中を丸めてふんばっている。ジャンプするときの姿勢だ。身構えるとまっすぐ飛んだ。両手で受け止めてやる。シュガーをなでていると、ニャアニャアいいながら、顔をすり寄せてくる。ムスクみたいな匂いがした。麝香猫というのもこんな感じなのだろうか。科は違っても、ちょっと近いのかもしれない。麝香猫から取れる香料は、モンローが使っている、あの有名な「シャネルの五番」にも入っているそうだ。うちはうるさいから、兄嫁は派手な化粧などしていないが、彼女の生れつきの匂いが、香水みたいで、近くにいると妙に気分がよくなる。そんなことを考えながら、引き戸を静かに開けた。するすると開く。音を立てないように閉めて、靴をそろえていると、いつの間にかあの香りが漂ってきた。振り向くと菜摘が正座していた。今日の彼女は猫のように目がくりっとしている。会ったときから猫みたいな顔だなと思っていたが、今日はいつに増して猫っぽい。ひげがあっても不思議ではない。
 菜摘はいつもと違っていた。大胆だった。両手でいきなり豊雄の頭を抱きしめた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日