憑依

花
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 ギャアギャアという尋常でない猫の鳴き声に嫌な予感がした。玄関の敷居で全身の毛を逆立てて、シュガーが家の中を見ている。玄関の敷石に血の川が流れていた。靴を汚さないように気をつけて、豊雄はおそるおそる玄関の中をのぞいてみた。菜摘の白い顔が妙な位置に見えた。胸にナイフが突き立っている。菜摘の目は生きているときと同じように、大きく見開いて、豊雄の方を向いていた。もちろん自分を見つめているはずはない。豊雄はこのときの菜摘の、大きな、形のいい目を忘れることが、一生涯できなかった。豊雄は怖くなって、家に戻り、部屋にこもって、数学の勉強をした。数学の好きな菜摘のことが思い出されるので、一番嫌いな国語にした。小説の問題を解いていたら、死んだ恋人を思い出す男の話だったので、すぐに古文の問題に切り替えた。『雨月物語』だった。自信に満ちた法師が余裕しゃくしゃくでおろち退治に向かい、ものの一瞬でとりつかれ、無様に死ぬ場面だった。選択肢に、「傲岸」とか「エリート意識」とかいう言葉が並んでいた。選択肢を真剣に見比べていたら、「無残な最期」という言葉が目に入り、ついさっきの恐ろしい光景が頭いっぱいに広がった。けたたましいサイレンが聞こえたのはその時だった。豊雄は叫び声をあげながら、国語の問題集を真っ二つに破り裂いた。今度はのろのろと英語の問題集をひっぱりだした。狂ったように英単語を反古に書きまくった。紙三枚を鉛筆書きで埋めた頃、目を血走らせた母が部屋に入ってきた。
 「豊雄、大変だよ。菜摘さんが」
 舌をもつれさせながら、大声でわめくと、母は階段を駆け降りた。もう外でサンダルの音がする。豊雄は空を走るように、夢中で会館まで駆けた。すごい人だかりだった。警察関係者が現場検証をしていた。海沿いの道端にも筵をかけられた死体が横たわり、男ものの靴を履いたつま先が見えていた。家の者の靴ではなかった。兄嫁と名も知らぬ男を、混乱した頭で、豊雄は結びつけようとした。なぜ、兄嫁が殺されたのか、見当もつかなかった。自分が原因でないことだけを、ひたすら祈り、怖れていた。
 皆からもつまはじきにされている、貧しい陰気なやもめの漁師が、一切の罪を負った。抑圧した感情を、幸せに暮らす美しい若妻に向けたのだろうと言われた。菜摘は、何の罪もなく、通り魔に殺された、悲劇の一般市民としてニュースで扱われた。気立てがよく、夫にも夫の両親にも献身的に尽くし、働き者で誰からも好かれる明るい妻だったと語られた。自分の分担なので、毎日、「漁師会館」という公民館的な施設を掃除していた。(これは事実だった。)それを熟知していた殺人鬼が、「漁師会館」に到着したころを見計らって、何か菜摘さんに働きかけようとして、建物に入り、菜摘さんの抵抗にあって、逆上し、ナイフで刺した。悪行の報いであろうか、菜摘さんが正当防衛のため手にした台所の包丁が、もみあっているうちに男の背中に刺さり、致命傷を受けた。男は逃げ出したが、ほんの数十メートルで命が尽きて、路上に倒れた。ワイドショーではレポーターがこんな感じで事件の顛末を話した。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日