憑依

花
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15

 豊雄はとにかく遠い所に行きたかった。四月から東京の予備校に行きたいというと、両親も兄も即座に賛成した。二人の様子が怪しいことに、やはり何とはなしに勘づき始めた母たちと、豊雄との間にあった懸隔は、今回の事件でますます広がりつつあった。寮には猫は置けないから、シュガーの面倒をくれぐれも頼むと言い残して、豊雄は東京に出た。そのころはとうに、子猫たちは、死ぬかもらわれるかして、いなくなっていた。夏に里帰りすると、シュガーはいなくなっていた。武一郎が車で遠くに連れて行ったのだ。お前がいなくてさみしいせいか、気がついたらいつの間にかいなくなっていたんだよ、と武一郎は言ったが、豊雄は嘘だとわかった。しかし、何も言わなかった。言える資格すらないと思った。
 実家にはなんとなく居場所がなく、母や兄との会話も冷めたものだった。三日後には東京に舞い戻った。ぼんやりすると、どうしても思い出してしまうから、わき目も振らず勉強をした。それこそ反吐が出る思いでやった。

 ある時、予備校から歩いて帰ると大粒の雨が降り出した。ちょうど喫茶店があったので、鈴を鳴らしてドアを開け、席を探した。いつも込み合う店なのか、雨宿り組が多いだけなのかわからないが、ぎっしり人が入っていた。トイレの近くの壁際にぼろいイスが二脚並べてあったので、とりあえずそこに座った。ひげを蓄えたマスターが、「すみませんねえ」と頭を下げた。また、鈴の音がした。髪がまっすぐで目が切れ長の女子大生が入ってきてきょろきょろした。見たこともないような美女だった。額髪も長く、首筋にかかる髪はわずらわしいほどだった。それでいて気品が漂い、すっきりとした印象を与えていた。眉から下唇まで、幅は両方の目尻の間、はっきり見えるのはそれだけであった。ことに美しいのは目だった。豊雄の好きな形だった。店の中には腰掛けられる場所はない。豊雄の隣の安っぽいイスを除いては。
 「あ、もしよかったら、どうぞ」
 豊雄がそつのない様子で勧めると、ぽっと頬を赤らめて、おじぎをした。氏育ちあやしからぬ立ち居振る舞いである。
 「ありがとうございます」
 娘が隣に座った時、ふわっといい香りが漂った。甘い、ムスクのような香りだ。
 「雨、やみそうにないですよね」
 「ええ」
 「ぼくは、恥ずかしながら、予備校に通っているんですけど、君は明治の学生?」
 娘はうつむいた。
 「実は、私も浪人なの」
 「もしかして、女子寮の人? ああ、ぼく、予備校の寮に入ってるんだ」
 娘は首を振った。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日