憑依

花
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16

 「家の者がもうすぐ迎えに来るの」
 「ぼく、大宅豊雄っていうんだけど、君は?」
 娘の声は小さくて聞き取りづらかった。というより、スピーカーから流れるジャズのスウィングとテーブルで話している四人連れの学生の大きな声で、さっきからかき消されがちだった。聞き取れなくて、「え?」と左手をあてがって、豊雄はきいた。娘はもう一度今度はゆっくりと言う。
 「さ・き・な・み」
 豊雄は耳を寄せてそれだけやっと聞き取った。
 「なみちゃん?」
 娘に顔を振り向けた豊雄を見て、首を横に振った。正面に見据えて、一音一音区切って発音した。「な」と発音した後、一度間を置いた。少し口を尖らせたように見えた。それから、「み」と言い終えた。豊雄には、「なみ」としか聞こえなかった。まだわからないというふうに困っているので、両手を豊雄の耳にあてがって、口を寄せて言った。今度ははっきり聞き取れた。麝香のような香りが強まった。
 「真名美」
 また、鈴の音がして、初老の紳士が入って来た。
 「若松さん、早かったわね」
 小柄な男は、深々と礼をした。スラックスに長袖のワイシャツ、スラックスと同色のベストを着用していた。
 「真名美お嬢様、車の通りが多いですので、お早くお車にお乗りなさいませ。あまり長く止めておくと交通の妨げとなりますよ」
 真名美はすっと立ち上がった。そして、豊雄の方を見た。豊雄は、次に会う方法を懸命に考えていた。すると、真名美の方が誘った。
 「もし嫌じゃなかったら、私の家の車に乗っていきませんか? あなたの寮まで送っていくわ。雨、まだ当分降り続きそうだもの」
 承知した豊雄は真名美と一緒に外へ出た。夏の雨が運んでくる風が肌に冷たく感じられた。若松にお金を渡されたマスターが、機嫌のよいあいさつを投げた。さっき磨いたばかりに見える黒塗りのロールスロイスが、雨の粒を玉にして、ボンネットや屋根の上に転がしていた。生れて初めて実物のロールスロイスをいきなり目の当たりにした豊雄は、ぽかんと口を開けて立ちつくした。ドアを開けたままの若松が催促した。小さくなって後部座席に乗り込むと、皮と香水の、いかにも豪華な匂いがした。香水はほんのわずか、わかるかわからない程度、真名美が付けていた。真名美が毎日乗るので、車内に隈なく行き渡っているのだろう。豊雄が堅くなっていると、真名美が話しかけた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日