憑依

花
prev

17

 「わたし、数学が大嫌いなの。それで落ちたんだけど、今、がんばってやってるのよ。今日もこれから家庭教師に教わるの」
 自分の得意な数学の話になったので、豊雄は気が楽になった。
 「ぼく、他はだめだけど、数学は結構わかるよ。今度、教えようか。代わりに英語教えてくれないかな?」
 豊雄はにったり歯を出して笑った。それが不思議に女心をとらえる。
 「今日はだめかしら。実は家庭教師の説明、よくわからないのよ。ね、そうしよう。若松さん、キャンセルできるかしら」
 若松は、自動車電話の受話器を取って、淡々と用件を済ませた。
 「佐々木ですが、家庭教師センターですか? 今日はお嬢さんの体調がすぐれないため、中止にしてもらえますか? はい、申し訳ございません。先生にくれぐれもよろしくお伝えください」
 豊雄はうろたえた。うれしいにはうれしいが、何か、今一つ、実感というものが希薄だった。
 「そんな、急にお伺いしたら、迷惑じゃないかな? 家庭教師を直前にキャンセルしてまで、教わる価値は、ぼくにはないと思うよ」
 「あら、気にしないで。数学のあとは、わたしが英語を教えればいいのね」
 豊雄はあいまいな返事をした。真名美が喜んでいるように見えるので、断りにくかった。
 真名美はどこの大学を目指しているのか質問した。
 「東京の国立がいいんだけど、私立がせいぜいかな。本当は京都の大学がいいんだけどね。そうなると、実家から通えって、どうせ言われるだろ? 親から離れて、一人で気ままにやりたいからね」
 真名美が同意した。それから、高校はどんなところだったとか、変な教師がいなかったかとか、そんな話題で盛り上がっているうちに、真名美の屋敷に着いた。
 いかめしい門の前で守衛が敬礼した。庭園を抜け、ガレージにロールスロイスは停車した。意外にも車はこの一台だった。手入れの行き届いたガレージを歩きながら、『麗しのサブリナ』を思い出した。映画の中に登場する、運転手とその娘のサブリナ、それらが若松と真名美さんに重なって見えた。もっとも、真名美さんはこの屋敷のお嬢さんだから、そんなはずはないのだが。いま、まてよ。もしかしたら、本当は運転手の娘かもしれないぞ。勝手な想像をめぐらしていたら、広い廊下を通って、広間に通じるドアをくぐっていた。大きなテーブルにメイドが皿を並べていた。
 「先に食事を済ませましょう」
 真名美はにっこりほほえんだ。どうやら運転手の娘ではないようだ。メイドがイスを引いてくれた。慌てて豊雄は席に着く。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日