憑依

19
「昔、あなたに会ったことがあるような気がするの。あなたみたいな人を無意識にずっと求めていたみたい。喫茶店の中に入った時、心臓がとまりそうなほど驚いたわ。あなたのことをよく夢で見たの。ねえ、あなた、この家で私と一緒に暮らさない? たいしたものではないけれど、二人でなら、働かなくても一生暮らしていけるくらいのお金はあるわ。あなたは、無理して受験勉強を続けなくてもいいのよ」
あまりにもできすぎた話であり、さすがの豊雄にも警戒心が働き始めたが、清純を絵にかいたような真名美が切々と訴えると、警戒心が消えてしまいそうになる。豊雄は本気で真名美と暮らしたいと思い始めた。しかしまた警戒心が復帰した。やっぱり変だ。
「でも、大学ぐらいはでて、仕事ぐらいは持っていないと、何かのときに困るからね」
「じゃあ、ここで一緒に受験勉強しましょう。一緒の大学を出て、あなたは数学の教師になればいいわ。そうしたら、私は家で翻訳の仕事でもするわ。ねえ、素敵じゃない? 一緒に暮らしましょうよ」
涙で潤んだ瞳で真剣に見つめられ、豊雄は迷った。快適で豪華な部屋の雰囲気、えもいわれぬ上品な芳香、神々しいまでの真名美の美しさに、豊雄の判断力は敗北した。たしかに、豊雄はふがいない男かもしれない。しかし、この場に居合わせたら、多くの男にとって、理性を保持することは困難だったのではないか?
「それって、ぼくと結婚するっていう意味?」
真名美は不安と恥じらいと期待のこもった熱いまなざしで、大きくうなずいた。豊雄は唾を飲み込んだ。妙に胸苦しい。
「結婚となると、今みたいなご時世でも、やはり親がかりの身だし、いったん実家に戻って、親に一言話しておかないと」と上ずった声が部屋によく響く。「俺は次男だから、誰と結婚しようが文句は言わないと思うけどね。真名美さんのような資産家ならなおさらさ」
真名美は笑みをあふれさせて豊雄の手を握りしめた。豊雄は、華奢な真名美の両肩に手を置き、ゆっくりと顔を近づけていく。息遣いが感じられる。
「約束して。今の言葉が正しいということを示して」
真名美は急に背を向けて、席を立ち、詩絵が出ていったドアへ向かった。ちょっと振り向いて、手で招き、ドアの向こうへ消えていった。音もなくドアが閉じられた。もう豊雄ははやる気持ちを抑えることができない。ドアにまっすぐ向かい、食堂から出る。廊下にはカーペットが敷かれている。それほど明るくはなく、優雅な雰囲気を醸し出すような照明がやさしく灯っている。右に左にと様子をうかがう。右奥に詩絵がドアを開いて立っている。豊雄は右に足を踏み出し、詩絵のところまで小走りで歩いた。詩絵が深くお辞儀をする。中に入れという意味に取れた。中は非常に落ち着きのあるゲストルームだった。見るからに高価そうなソファに真名美が腰掛けて、正面をじっと見ている。テーブルの上にはそれだけでも工芸品として価値がありそうな小さな黒檀の箱が置かれていた。真名美が顔だけで向かい側に腰掛けるよう合図した。
あまりにもできすぎた話であり、さすがの豊雄にも警戒心が働き始めたが、清純を絵にかいたような真名美が切々と訴えると、警戒心が消えてしまいそうになる。豊雄は本気で真名美と暮らしたいと思い始めた。しかしまた警戒心が復帰した。やっぱり変だ。
「でも、大学ぐらいはでて、仕事ぐらいは持っていないと、何かのときに困るからね」
「じゃあ、ここで一緒に受験勉強しましょう。一緒の大学を出て、あなたは数学の教師になればいいわ。そうしたら、私は家で翻訳の仕事でもするわ。ねえ、素敵じゃない? 一緒に暮らしましょうよ」
涙で潤んだ瞳で真剣に見つめられ、豊雄は迷った。快適で豪華な部屋の雰囲気、えもいわれぬ上品な芳香、神々しいまでの真名美の美しさに、豊雄の判断力は敗北した。たしかに、豊雄はふがいない男かもしれない。しかし、この場に居合わせたら、多くの男にとって、理性を保持することは困難だったのではないか?
「それって、ぼくと結婚するっていう意味?」
真名美は不安と恥じらいと期待のこもった熱いまなざしで、大きくうなずいた。豊雄は唾を飲み込んだ。妙に胸苦しい。
「結婚となると、今みたいなご時世でも、やはり親がかりの身だし、いったん実家に戻って、親に一言話しておかないと」と上ずった声が部屋によく響く。「俺は次男だから、誰と結婚しようが文句は言わないと思うけどね。真名美さんのような資産家ならなおさらさ」
真名美は笑みをあふれさせて豊雄の手を握りしめた。豊雄は、華奢な真名美の両肩に手を置き、ゆっくりと顔を近づけていく。息遣いが感じられる。
「約束して。今の言葉が正しいということを示して」
真名美は急に背を向けて、席を立ち、詩絵が出ていったドアへ向かった。ちょっと振り向いて、手で招き、ドアの向こうへ消えていった。音もなくドアが閉じられた。もう豊雄ははやる気持ちを抑えることができない。ドアにまっすぐ向かい、食堂から出る。廊下にはカーペットが敷かれている。それほど明るくはなく、優雅な雰囲気を醸し出すような照明がやさしく灯っている。右に左にと様子をうかがう。右奥に詩絵がドアを開いて立っている。豊雄は右に足を踏み出し、詩絵のところまで小走りで歩いた。詩絵が深くお辞儀をする。中に入れという意味に取れた。中は非常に落ち着きのあるゲストルームだった。見るからに高価そうなソファに真名美が腰掛けて、正面をじっと見ている。テーブルの上にはそれだけでも工芸品として価値がありそうな小さな黒檀の箱が置かれていた。真名美が顔だけで向かい側に腰掛けるよう合図した。