憑依

花
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 「好き」
 なぜかこの声に、豊雄は「SUKI」というアルファベットを思い浮かべた。真名美は何か身につけて隣の部屋に行った。豊雄も支度して、メイドの案内のままロビーまで歩き、運ばれてきたコーヒーを飲んだ。詩絵とは別のメイドだった。新聞を読んでいると、「ニャア」といって、猫が近付いてきた。足音を立てずに豊雄のそばへ来て、足もとに顔や体を何度もすりつける。新聞を持ったまま下に目をやり、そのまま顔を凍らせた。
 「シュガー?」
 毛並みの見事なシャム猫だった。おとなしくしゃがみこみ、大きな丸い目でじっと豊雄を見上げている。豊雄はかぶりを振った。何を馬鹿なことを。シャム猫ははやっている。佐々木家のようなお屋敷にぴったりじゃないか。昨日風呂で聞いた猫の声はこれだったのだ。薄手のセーターにジーンズという、昨日とはまるで印象の違う真名美が、長い髪を一つに束ね、首の右側に垂らし、両手でいじりながら、入口に立った。こうして顔がはっきり見えると、菜摘にどことなく似ているという気がまたしてきた。主人の気配でシャム猫は走り出した。
 「シュガー、あなた、もう豊雄さんを気に入ったの?」
 今確かに「シュガー」って呼んだんじゃないのか? 豊雄は驚きの表情を隠すことができない。興奮気味に尋ねる。
 「真名美、その猫、シュガーっていうの?」
 真名美は、胸に抱きあげ、頬ずりしながら、豊雄に近づく。そのしぐさが、菜摘を余計に思いださせる。
 「いいえ、この子はシュラっていうのよ」
 「シュラだったか。かわいい名前だね。そうか、僕の聞き間違いだったんだね」
 真名美はそのままの姿勢で、じっと豊雄を見ている。何か言いたいことがあるのか、ただ見ているだけなのか、豊雄にはわからなかった。豊雄は話題を変えようと思った。
 「そう言えば、今朝は、詩絵はいないんだね」
 「あら、あの子のことが気になるの?」
 「そういうわけじゃないけど。この家に住むようになるのだったら、使用人のこととかは知っておかないとね」
 「あの子は遅番なの。夕方から来てくれているのよ」
 豊雄は納得した。それからあれこれ話題を変えているうちに食事の用意ができた。食事を済ませると、若松が車をだし、寮に戻ることになった。真名美もついてきた。外へ出ると様々な妄想から解放されて、にわかに現実感が、ありとあらゆるものに戻ってくるようだった。ロールスロイスの後部座席で見つめ合う。やはり真名美は真名美だ。菜摘とはかなり違う。ふと真名美と少しも離れていたくないという思いが込み上げてきた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日