憑依

44
賢素の何気ない言葉に、豊雄はどきっとした。
「お前がどこかにたばこの火をつけたんとちゃうか?」
賢素は黒っぽい服を着ていたから、確かめようとしてしばらく服をひっぱったり、ひっくり返したりしたが、そのうちにあきらめた。
「まあ、ええか。もう匂いもせえへんしな」
豊雄も焦げくささを感じていた。自分の袖を鼻に近づけたりしていたが、別になんともなかった。この間のこともあったので、何か心に引っかかるのだった。
そういうことは、この後もたびたびあった。すっかり忘れた頃に、真名美のあたりから、さっとあの匂いが漂うのである。そのたびに真名美は何かとても納得のいく理由をいう。だから、偶然が重なることもあるのだろうと、豊雄は自分に言い聞かせるようにしていたのである。
七月に入り、期末試験が済むと、二人は旅行に出た。正式には卒業後に式を挙げ、ハネムーンに行くことになっていたが、籍を入れたのだから、真名美も新婚旅行をしたいだろうと、叔母が気を回したのだ。詩絵も行きたがった。真名美がおずおずとそのことを切り出したが、豊雄はまったく問題にしなかった。従順でおとなしく、清楚な侍女の詩絵を、豊雄も気にいっていたのである。
「豊雄様、ご迷惑をおかけして本当に相済みません」
詩絵は、古風な娘だった。もうすっかり豊雄になついて、初めのような硬い表情はなくなっていた。
「詩絵、様呼ばわりはやめてくれないかな? 豊雄さんでいいよ」
「そうはいいましても、やはり、わたくしのご主人様でございますから」
「なんだか、戦前のお手伝いさんみたいだね」
「申し訳ございません」
「別に謝るようなことじゃないだろ」豊雄は腰を折る詩絵の肩をやさしく触った。
「済みません」何度も頭を下げるような娘だった。
豊雄はこの夏は数学の研究に没頭したかったので、あまり遠くに行きたいと思わなかった。京都の神社仏閣をあまり見て回ったことがなかったので、そのことをいってみると、真名美は嫌がった。修学旅行で主だったところは見たし、そもそもお寺巡りは好きではないということだった。真名美はあまり活動的なことは好まなかった。部屋にいるときも、ソファにかけて本を読んだり、紅茶を片手にクラシック音楽を聴いたりことを好んだ。
「お前がどこかにたばこの火をつけたんとちゃうか?」
賢素は黒っぽい服を着ていたから、確かめようとしてしばらく服をひっぱったり、ひっくり返したりしたが、そのうちにあきらめた。
「まあ、ええか。もう匂いもせえへんしな」
豊雄も焦げくささを感じていた。自分の袖を鼻に近づけたりしていたが、別になんともなかった。この間のこともあったので、何か心に引っかかるのだった。
そういうことは、この後もたびたびあった。すっかり忘れた頃に、真名美のあたりから、さっとあの匂いが漂うのである。そのたびに真名美は何かとても納得のいく理由をいう。だから、偶然が重なることもあるのだろうと、豊雄は自分に言い聞かせるようにしていたのである。
七月に入り、期末試験が済むと、二人は旅行に出た。正式には卒業後に式を挙げ、ハネムーンに行くことになっていたが、籍を入れたのだから、真名美も新婚旅行をしたいだろうと、叔母が気を回したのだ。詩絵も行きたがった。真名美がおずおずとそのことを切り出したが、豊雄はまったく問題にしなかった。従順でおとなしく、清楚な侍女の詩絵を、豊雄も気にいっていたのである。
「豊雄様、ご迷惑をおかけして本当に相済みません」
詩絵は、古風な娘だった。もうすっかり豊雄になついて、初めのような硬い表情はなくなっていた。
「詩絵、様呼ばわりはやめてくれないかな? 豊雄さんでいいよ」
「そうはいいましても、やはり、わたくしのご主人様でございますから」
「なんだか、戦前のお手伝いさんみたいだね」
「申し訳ございません」
「別に謝るようなことじゃないだろ」豊雄は腰を折る詩絵の肩をやさしく触った。
「済みません」何度も頭を下げるような娘だった。
豊雄はこの夏は数学の研究に没頭したかったので、あまり遠くに行きたいと思わなかった。京都の神社仏閣をあまり見て回ったことがなかったので、そのことをいってみると、真名美は嫌がった。修学旅行で主だったところは見たし、そもそもお寺巡りは好きではないということだった。真名美はあまり活動的なことは好まなかった。部屋にいるときも、ソファにかけて本を読んだり、紅茶を片手にクラシック音楽を聴いたりことを好んだ。