憑依

花
prev

46

 「Is this the red beet?」
 手拭いをかぶったおばあさんが、困っていた。すかさず真名美が近寄って助けた。
 「Yes it is.」
 愛嬌のある大きな外国人は、真名美に向きなおって、あれこれ質問しはじめた。
 「How do you eat?」
 「hidabenikabu is a pickled. So You can eat well without any further taste.」
 「Oh! I see. Thank you very much.」
 日本のお辞儀を覚えたのだろう。体格のいい金髪の男性はうれしそうに頭を下げた。真名美は、どういたしましてと日本語でいうと、豊雄のところへ戻った。歩きながら豊雄はきいた。
 「すごいな真名美は。なんていってたの?」
 真名美は照れてほおを少し赤らめた。「飛騨紅かぶは、漬物だから、そのまま食べられますよっていっただけ」

 橋のたもとに男が立って自分たちをじっと見つめているのに気づいた。真名美は男に気づくと、なんともいえない妙な顔をした。それは一瞬のことだったので、豊雄は特に気にとめなかった。見知らぬ男にじろじろ眺められたら、いやな気がするのは自然のことだ。その男は、背は高くないが、恰幅のよい中年だった。グレーのスラックスと開襟シャツを身につけていた。三人が通り過ぎる時もずっと見つめている。真名美は気味悪がって豊雄の腕にしがみついた。橋の真ん中で振り向くと、男も体の向きを変えて、まっすぐ見ていた。あの事件について、刑事がまだ調べているのだろうか。豊雄は旅館に戻りながら考えた。そんなはずはない。あの事件はすっかり解決したのだから。
 部屋に戻って、そそくさと帰り支度をした。旅程は、下呂温泉で一泊、そして、近江八幡で最後の夜を過ごすということになっていた。しかし、真名美は気分がすっかり悪くなって、早く京都に帰りたがった。下呂温泉はとりやめて、近江八幡の旅館で休もうということで、真名美も承知した。九十九折りの細い山道を、すっかり元気をなくした真名美を乗せて登った。詩絵が、さっきの男が車で走っているのを見たような気がいたします、などというので、嫌な予感がますます膨らんできた。
 夏木立が鬱蒼と生い茂っている。山道を慎重に運転していると、カーブに差し掛かったところで山鳥が見えた。車の接近に気づいていないらしい。速度を落とす。あとほんの少しで轢いてしまうようなタイミングで、やっとはばたいた。豊雄はひやひやした。しかし、ぼんやりした鳥はこの一羽だけではなかった。この鳥が飛んだあとを、一テンポ遅れて、一斉に五、六羽慌てて飛び上がり、視界が完全にふさがれた。豊雄は思わず急停車した。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日